
東京から北へ約260キロ。筆者は今月、福島県大熊町と双葉町にまたがる中間貯蔵施設を訪ねた。ここは、2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故によって放出された放射性物質を除去する除染作業によって生じた土壌や廃棄物を、一時的かつ集中的に保管する仮の施設である。
搬入開始から今年で10年。あと20年以内に、県外で最終処分を行い、この施設をなくすことが国の約束だ。その約束は果たされるのか。まずは、施設の現状から見つめてみたい。
目次
人が消えたまち
中間貯蔵施設の敷地は、福島第一原発を取り囲むように南北約8キロ、東西約2キロに及ぶ。大熊町と双葉町の面積の約12パーセントにあたるこの広大な土地は、すべて国が施設用地として指定し、一般の立ち入りは禁止されている。その広さは約1,600ヘクタール。実感がわきにくいが、東京都渋谷区がすっぽり入るほどの規模だ。渋谷区の人口は約23万人。対して、今この施設の周辺に暮らす人の姿はほとんどない。

記憶をとどめる土地と、人々の思い
見学当日、晴れ渡る空の下で最初に訪れたのは、特別養護老人ホーム「サンライトおおくま」だ。福島第一原発からの距離はおよそ2キロ。スタッフの方の話によると、地元では震災前はなじみのある施設で、事故当時、約100人の入所者と約40人の職員がいたが、当日の夜9時には全員の避難が完了したという。施設の奥には、震災後にそのまま残された車両が今も置かれ、時が止まったままのような光景が広がっていた。

敷地内の見晴台に立つと、原子炉建屋や処理水を貯めたタンク群が見渡せた。この一帯にはかつて950世帯、約2,700人が暮らしていたが、いまは自然に育った花や松がわずかにその名残をとどめている。2024年には住宅の本格的な解体も始まり、地域の面影は徐々に姿を消しつつある。

黒い袋と土の山が語る現実
中間貯蔵施設は2015年に運用を開始。ピーク時の2019〜2020年には、1日あたりおよそ3,000台ものトラックが除去土壌を運び入れたという。施設内では、「フレコンバッグ」と呼ばれる黒い袋に詰められた土壌が、整然と積み上げられている。


現地スタッフによると、中間貯蔵施設では若い学生の見学受け入れも行っている。最初は緊張していた学生たちも、説明を聞くうちに放射線の数値の意味を理解しはじめ、「ここをグラウンドにしたら?」「フェスを開いたら?」といった柔軟な発想が飛び出すこともあるのだそうだ。


こうした若者たちが社会の中心となる30年後には、施設の運用も終了しているはずだ。そのとき今日の体験が、環境政策や地域再生に対する理解の土台となることを、現地スタッフは願っている。
「一時的な保管」の現実と課題
すでに受入・分別施設の運用は終了しているが、土壌の貯蔵や処理は現在も続いている。双葉町側には1日150トンと200トンの処理能力を持つ焼却施設が1軒ずつ、また、75トンの灰を処理できる炉が4施設あるという。処理済みの灰は白いテント内に保管されている。

そして、この日、見学の最後に訪れたのは、正八幡(しょうはちまん)神社。境内には、中間貯蔵施設設置に最初に同意した地域の「願い」が刻まれた石碑がある。震災前には7,000を超える人が住んでいたが、2025年4月現在の住民数は180人にまで減少した。
当初は「先祖代々の土地を守りたい」と反対の声も強かったが、避難生活の長期化と復興の遅れの中で「協力しよう」と気持ちを切り替えた人々も少なくない。現在では、施設用地の約95%で使用合意が得られており、買収または地上権の設定によって造成された土地に、県内各地から約1,200万立方メートル(輸送量ベース)の除去土が搬入されている。
「仮置き」のその先に
将来、この土壌を掘り返すことになれば、再び環境中に放射性物質が出るのではないかという懸念もある。除去した土を一カ所に集めて厳重に管理しているはずなのに、それをまた全国に分散して再利用することが果たして現実的なのか。1日あたりおよそ3,000台ものトラックが集めた土を、今度は全国に運ぶのかという疑問も残る。
国が約束したのは、2015年3月の搬入開始から30年後、つまり2045年3月までに福島県外で最終処分を終えること。その期限まで、すでに3分の1が過ぎている。
除去土の再利用に向けた実証実験は全国で頓挫しており、最終処分の候補地も示されていない。中間貯蔵施設はあくまで「一時的な保管場所」だが、その「仮」の現実は思った以上に長い。

忘れられた風景に、本質がある
積み上げられた黒い袋の中には、放射性物質だけでなく、地域の記憶や人々の思いも詰まっているように感じた。静かな風景に包まれたこの土地は、語りかけてくる。「この問いは、まだ終わっていない」と。
事故前の大熊町と双葉町には、あたたかい日常があった。果樹園が広がり、自然と共に暮らす穏やかな風景があった。その記憶を背負ったまま、いま中間貯蔵施設はそこにある。
国策により“仮”の場所となったこの地が、これから何を残し、どこへ向かうのか。私たち一人ひとりが目を向け、考え、声をあげることで、その行方は形づくられていくのではないだろうか。
写真はすべて2025年6月15日に筆者撮影
参考:中間貯蔵事業情報センター https://infocenter.jesconet.co.jp/