東京大学の目の前に誕生したオープンイノベーション拠点「UT‐LAB」では、先端技術を駆使し、日々社会課題の解決と新たな価値創造に挑んでいます。その活動の原動力となるのは、元裁判官であり、異端児として数々の挑戦を乗り越えてきたUT‐LAB代表・伊藤嘉恵(いとう・よしえ)さん。今回伺った彼女の生い立ちから、裁判官としての経験、そして施設を運営するトグルホールディングス株式会社(以下、トグルホールディングス)での挑戦と展望に迫ります。

目次
五感を強烈に育てた幼少期。自由な発想力の原点
埼玉県深谷市出身の伊藤さんは、文字やテレビを見ることすら禁じられる保育園の厳格な教育方針の下で育ちました。幼少期は「裸足で自然の中を駆け回り、五感だけで世界を感じる」日々を送ったといいます。小学校に入るまでひらがなも書けなかったものの、入学後は一気に読書に没頭し、1カ月に100冊を読むほど活字に親しんでいました。
「読書は私の原点であり、自由な発想を育む大切な時間でした」と語る伊藤さん。その情熱は、のちの進路選択や人生観に大きな影響を与えることになります。

呼び覚まされた「自分の頭で考え、行動する力」。挫折とフランス留学が開いた自由の扉
高校時代、幼い頃から夢見た国際的な職業への憧れと、家族からの強い期待を受けて、伊藤さんは通訳や法律の道を歩むことを決意します。慶應義塾大学法学部に進学し、厳しい学びの中で「裁判官としての道」を見出すまでには多くの葛藤がありました。
「周囲が無批判にエリートを目指す中で、自分の内面に迷いが生じたことは、人生で初めての大きな挫折でした」と、苦い経験を振り返ります。
転機となったのは、大学3年生時のフランス留学。現地で体験した「自由な生き方」や「個人の意見が尊重される文化」に深く感銘を受け、「自分が本当にやりたいことは何か」を考え直す契機となりました。
「フランスでは、誰にも強制されることなく、自分の考えを率直に表現することが尊ばれます。そこで、私の中に眠っていた『自分の頭で考え、行動する』という情熱が一気に目覚めたのです」
裁判官からの転身。世界を変える挑戦
帰国後、結婚・出産を経て、育児をしながらロースクールに進学し、司法試験に一発合格。裁判官に任官されると、さいたま地裁や東京地裁で、刑事事件や社会的注目を集める案件に取り組みながら、厳しい業務の中で「社会に対してゼロをプラスに変える」という意義を感じ取るようになりました。
伊藤さんはその頃のことを「裁判官として働く中で、仕事に対するやりがいや社会的インパクトは十分に感じていました。しかし、社会により大きな価値を生み出すためには、新しい視点や方法をスピード感を持って取り入れていく必要があると感じ、『もっと大きなプラスを社会に生み出すためには、現状を打破する必要がある』と強く思うようになりました」と語ります。
その転機は、弟でトグルホールディングスの代表である嘉盛(よしなり)さんからの「上場準備を手伝ってほしい」という誘いにより訪れます。「不動産」「建築」「金融」を束ねるデジタルインフラづくりに向け、独自に開発した不動産開発のAIで、賃料算定、用地の仕入れ判断、投資家向けの案件資料作成などの機能を提供する同社。創業者である父に恩返ししたいという気持ちもあり、伊藤さんはトグルホールディングスに参画する決意を固めました。
伊藤さんは「裁判官としての快適な環境を捨て、『トグルでやり切る』と覚悟を決めるのは、簡単なものではありませんでした。しかし、私には家族と、自分自身が信じる『共に世界を変える』という強いビジョンがありました」と伊藤さん。

トグルホールディングスに参画後、伊藤さんはUT‐LABの立ち上げを任され、わずか3カ月で施設をオープンさせるという難題に挑みました。はじめはプロジェクトマネジメントの経験もない中、右往左往しながらも、周囲に助言を仰ぎつつ必死にプロジェクトを推進していきます。
「UT‐LABの立ち上げは、私にとってまさに『マネージ』するという本来の意味を実感する場でした。困難な中で、何とかやり遂げる。それが私の挑戦でした」と伊藤さんは、プロジェクトの成功に至る過程を振り返ります。
オープン後は、東大生を中心に才能豊かな人材が集い、週1ペースでイベントやワークショップを開催。さらに、法務、人事、広報など多岐にわたる業務をこなしながら、「僕らならできる」を合言葉に創造的自信を醸成することを目指し、組織全体の文化醸成にも力を注いでいます。
「未経験でも、挑戦する意思があれば誰でもリーダーになれる。トグルの器の大きさと、若い仲間たちの情熱に、日々刺激を受けています」

「やり切る」挑戦者たちと、トグルの母として目指す最高にイケてる組織
今後の展望について、伊藤さんは「5年後には、トグルが上場し、事業規模が拡大していると同時に、組織全体が成熟した成長を遂げている姿を描いています」と力強く語ります。
トグルホールディングスのミッションは、不動産、建築、金融の各業界に変革をもたらし、不動産投資を1日で完了できる世界の実現です。このビジョンを達成するためには、“組織内で個々人が成長し、幹部が高い能力と人間性を発揮することが不可欠”と伊藤さんは考えます。
また、人事戦略を考えるHR部門においては、HRユニット長として統合的な課題解決の方法を示すインテグラル理論を取り入れた革新的な人事制度の構築を目指し、「凡事徹底」と「創事徹底」により、全員が自己の能力を最大限に発揮できる環境作りに努めています。
伊藤さんは「私はトグルの『母』のような存在であり続け、組織全体の成長を支えるとともに、挑戦する仲間たちの背中を押していきたい」と話します。
裁判官として培った知性と覚悟、そして異端児としての人生経験が結実した伊藤さんの挑戦は、UT‐LABの運営責任者として新たな価値創造に大きく貢献しています。「共に世界を変える」という強い信念のもと、彼女は自らの過去の挫折や転機を糧に、今後もトグルホールディングスと共に未来を切り拓いていくことでしょう。
取材、執筆:木場晏門