
「まさか、こんなことが起こるとは…」2011年3月11日、田中浩一さん(仮名)は異動で戻ったばかりの福島県内で未曽有の震災を経験した。本記事では当時アパレルショップに勤務していた田中さんの体験から困難な状況下で人々がどのように生活を立て直していったのか、また、復旧に奔走する中で見えたビジネスの変化と人の絆についてお伝えする。
目次
3月11日
―異動辞令を受け、新潟から福島に戻ってきて2ヶ月が経とうとしていた頃でした。あの日、私は1週間の中国出張から帰ってきたばかりで、休暇を取っていました。
その日、母と昼食に出かけた市内の和食料理店で偶然、取引先の海外メーカーの部長と会い、少し立ち話をしました。まさか、その数時間後にあのような大地震が起きるとは、想像もしていませんでした。

昼食後、母を家に送り届け、私は用事を済ませるために再度車で家を出ました。ガソリンを満タンにし、コンビニに寄ろうと車を停めた時です。突然、携帯電話から緊急地震速報のアラームが鳴り響きました。目の前でコンビニの建物が大きく左右に揺れ、ただ事ではないと感じました。
会社の本社ビルも激しく被災。地震発生直後は出社しないようにと連絡が入りました。私は自宅で待機しながら、家の中を片付けていました。

その日夕方4時頃でしょうか、外はふぶいていて、とても寒かったのを覚えています。本社ビルの上層階は危険な状態だったので、1階に状況把握のため対策室が設けられ、数名が出社することになったのを後から知りました。
混乱の中で生まれた支え合い
私が出社できるようになったのは、地震発生から1週間後でした。従業員は県内に家族と住んでいる人、単身赴任で家族が他県にいる人、家族全員が県外に住んでいる人などさまざま。残れる人で協力し、職場を立て直そうということになりました。
地震が起きてから10日ほどは何もできない状態でしたが、20日ほど経ってからようやく今後のことを話し合うことができるようになりました。その後まもなくして、本社ビルに入ると、地震で倒れたコピー機がさらに同じ部屋にあるデスクを壊すなど、オフィス内は惨憺(さんたん)たる状況でした。とても通常業務ができる状況ではなく、ほどなくして比較的被害の少なかった県内西部にある別の街の空きオフィスに仮移転しました。

私の自宅の方は発災当時、電気とガスは通じていたものの、水道だけが2、3週間止まり、入浴もできない状態でした。市内でも比較的被害が少なかった地域にあった会社の保養施設では水が出たため、同期の責任者に声をかけてもらい、段ボール箱にゴミ袋を二重、三重にも重ねて水を満タンにし、家に持ち帰って生活をつないでいました。その保養施設には避難してきた人々も滞在し、互いに助け合う姿がありました。
あの日、和食料理店で偶然出会った海外メーカーの部長は、本社の上階にある会議室で被災したとのこと。交通網がマヒし、東京へ戻ることができたのは2日後だった、と聞いたのはその後のことです。
被災していない地域だからこそできる支援
こんな状況のなか、本社では東日本にある店舗での営業が難しい分、西日本の店舗にスタッフを集中させ、売上をカバーする戦略を取りました。
しかし、物流網が混乱し、商品が入荷しない事態も多発。そんな中、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故の影響で、首都圏で計画停電が実施され、照明器具や乾電池の需要が急増しました。私たちは買い付けに奔走し、今まで取引のなかった海外の輸入業者とも取引するようになりました。
混乱の中で直面した突破口とは
震災の混乱の中で、人々はただ立ち止まるのではなくできることを模索し続けた。想定外の需要の変化や次々と訪れる課題に対し、現場の人々は柔軟に対応しながら乗り越えていった。ビジネスの世界においても、社会全体においても、「支え合い」が新たな道を切り開く力になるのだと、筆者は彼の話を通じて改めて感じた。