青葉城は福島市にあった?伊達政宗ゆかりの城名の由来とは【福島県福島市】

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仙台市内を見下ろす仙台城(青葉城)跡に立つ政宗公騎馬像=2024年5月25日、仙台市、筆者撮影

「杜の都」のシンボルとして知られる仙台城(青葉城)。伊達政宗が築いたこの城の名称が、実は福島市にある信夫山(しのぶやま)に由来していることはあまり知られていない。戦国の動乱期、政宗の命運を左右した出来事と、一寺院の山号がやがて仙台藩の象徴的地名へと受け継がれていった。

南側から見た信夫山全景=写真提供:福島市観光コンベンション協会

信夫山は、JR福島駅から車で10分ほどの市街地に横たわる標高約275メートルの山だ。現在は市民の憩いの場として親しまれているが、慶長年間、関ヶ原の戦い(1600年)前後には、伊達家と上杉家が対峙(たいじ)する「松川の合戦」の舞台のひとつとなった。東軍に属した伊達政宗は、局地戦において劣勢に追い込まれ、この信夫山周辺で退却を余儀なくされたと伝えられている。

信夫山の中腹にある寂光寺跡に建てられた石碑=2024年12月15日、福島市、筆者撮影

信夫山は、福島と宮城方面を隔てるように位置し、自然の防壁として機能する地形を持つ。政宗はこの地形を生かし、敵の追撃をかわしながら態勢の立て直しを図った。その際、伊達軍をかくまったとされるのが、信夫山西山にあった寂光寺(じゃっこうじ)である。寺は兵をかくまい、時間を稼ぐ拠点となったとされ、もし信夫山と寂光寺の存在がなければ、政宗はこの地で討たれていた可能性も否定できない。

寂光寺近くの羽黒神社には日本一の大きさを誇る長さ12mの大わらじがある=2024年5月6日、福島市、筆者撮影

信夫山の特徴は、軍事的価値だけにとどまらない。中腹には羽黒神社、月山神社、湯殿山神社が点在し、これは出羽三山を信仰する修験者たちが、この地を修行の場としていた名残とされる。出羽三山で修行を積んだ山伏たちは、修行を終えた後、各地に新たな霊場を求めて歩き、信夫山もその一つとして選ばれた。戦国の武将が身を寄せた山が、同時に祈りの山でもあった点は、東北の歴史文化を象徴する出来事と言える。

仙台城は東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城=2024年5月25日、仙台市、筆者撮影

関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、伊達政宗はその恩賞として仙台を与えられ、初代仙台藩主となった。政宗は、信夫山で自らを救った寂光寺への恩義を忘れず、同寺を仙台の地に再建させたという。しかし、その建立地が城郭建設に適していたため、寺は別の場所へ移転され、その跡地に築かれたのが仙台城(青葉城)である。

ここで重要なのが、寂光寺の山号である。寂光寺はもともと「青葉(せいよう)山寂光寺」という山号を持っていた。「青葉(せいよう)」は音読すると「青葉(あおば)」となる。この山号が城と周辺地域に引き継がれ、城は青葉城、丘陵一帯は青葉山と呼ばれるようになった。すなわち、青葉城という名称の源流をたどると、福島の信夫山にあった寂光寺へと行き着くのである。

福島盆地に霧が立ち込めると信夫山(写真中央)が島のように浮かび上がる=2024年12月30日、福島市土湯温泉町、筆者撮影

市街地にある一見すると小さな里山が、戦国の英傑を救い、その後の藩政と地名形成にまで影響を及ぼした。信夫山は、軍事・信仰・政治という複数の側面から東北の歴史を支えた存在として、今も静かに福島の街を見下ろしている。仙台で青葉城を訪れる際には、その名の背景に、信夫山と寂光寺の物語があることを思い起こしたい。

参考:戦国福島の関ヶ原松川の合戦(福島市郷土史料室)、せんだい旅日和(仙台観光国際教会)

昆愛

昆愛

埼玉県川越市出身。前住地は山形県鶴岡市。会社員のかたわら、地域資源の掘り起こしとその魅力発信活動に取り組む。2024年、天文活動の報告・交流等を目的としたシンポジウムでの発表「天文文化史で地元の魅力発信?九曜紋が導く新たな誘客構想とは【福島県南相馬市】」で渡部潤一奨励賞を2年連続受賞。また、2025年、「津波遺留品の返還事業終了へー東日本大震災から14年、記憶を未来へ【福島県いわき市】」で3回目となる本サイトのベスト・ジャーナリズム賞を受賞。写真を通じた情報発信の一環として、郡山市(福島県)の市民カメラマンも務める。

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