
美しい海と豊かな自然に恵まれた三重県志摩市・英虞(あご)湾。真珠養殖のメッカとして知られるこの穏やかな入り江で、かつて使われていた真珠の作業場が、今、全く新しい形の宿泊体験施設へと生まれ変わっています。

この英虞湾の真珠養殖の跡地を活用して、失われゆく「里海(さとうみ)」の体験を届けるCOVA(コーバ)プロジェクトを手がけるのは、長年真珠業界に身を置く覚田(かくだ)真珠株式会社代表取締役社長の覚田譲治(かくだ・じょうじ)さん。海と人が共生する「里海」の豊かさを次世代に伝えたいという切実な思いと、「美しいだけでは真珠が売れない」という業界への強い危機感が、このプロジェクトの原動力となりました。
用意された観光コンテンツではなく、そこにある自然や地元の人の営みをそのまま味わう「本物」の体験。そして、漁業と観光を掛け合わせることで、地域に新たな経済循環と誇りを生み出す挑戦。過疎化や環境問題といった課題を抱える地方において、一つの希望の光となる「循環モデル」の再構築に迫ります。
目次
「美しいだけでは売れない」真珠業界の危機感が「里海を見せたい」という思いへ転換
1970年代まで、戦後の外貨獲得産業として日本の真珠は世界中で飛ぶように売れ、英虞湾の沿岸には次々と作業場が建てられていました。しかし、生産過多により一部の施設は閉鎖を余儀なくされます。今回宿泊施設として生まれ変わった場所も、長らく真珠作りには使われておらず、覚田さんにとっては子どもの頃の遊び場であり、大人になってからは一人で瞑(めい)想にふける静かな隠れ家のような場所でした。
英虞湾と太平洋を隔てるわずか2キロほどの陸地の内側に広がるのは、まるで湖のように穏やかで寛容な海。そして何より、そこを行き交う個性豊かで温かい地元の人々との距離の近さが、この土地の最大の魅力でした。
一方、真珠業界の最前線に立つ中で、強烈な危機感も抱いていました。「今はもう、美しいというだけでは真珠が売れない時代が来ています」そう覚田さんが話すように、特にヨーロッパのトップブランドを相手にする際、環境や社会への配慮、さらに自然や生物多様性まで含めた取り組みが厳しく問われるようになっているといいます。そうした国際的な基準に応えられなければ、どれほど品質の高い真珠でも選ばれにくくなる。そんな現実が、里海の循環そのものを見つめ直す大きなきっかけになりました。
「実は、日本の真珠養殖は非常にサステナブルなんです。山で畑や果樹園を営み、森を手入れすることで、雨と共に豊かな栄養分が海へ流れ込む。それを食べてアコヤ貝が育ち、人間が収穫することで海底のヘドロ化を防ぎ、使ったものは堆積させずにコンポストで土に返す。人が周りに住むことで海そのものが豊かになる『里海』のシステムが完成しています」
このSDGsにも合致する素晴らしい仕組みを世界に知らせるためには、自らが実践者となり、成功事例を作るしかない。しかも、朝もやに包まれる漁村の活気や、日中の静寂さを肌で感じ、自分がこの大きな自然のサイクルの一部だと体感してもらうには、日帰りではなく「宿泊」してもらう必要がありました。こうして、個人的な土地への愛着、真珠業界の未来、そして地域への思いが重なり合い、前例のないプロジェクトが幕を開けたのです。
廃工場をリノベーション。そこにある自然と人を昇華させたフィジカルに負担をかける「本物」の体験
「一つは、来た人が懐かしいと感じるような、昔からそこにあるものに触れるようなこと。 もう一つは体験が本物であること」これが宿泊施設のコンセプトです。


そこにあるものだけを昇華して、触れやすい形を作ってあげる。「取ってつけたようなものじゃダメなんです」と覚田さんは話します。
建物は、かつての真珠養殖作業小屋の面影を残すようにリノベーションされました。真珠の核入れ作業に光を取り込むための海に向いた連続する窓や、瓦屋根といった昔ながらの風景を大切にしています。そして、宿泊空間の心地よさ以上に、そこで採れる食べ物や、そこに住む人々、自然とどう触れ合うかという体験そのものを重視しました。

提供される体験は、どれも本物。81歳のおじいちゃんが育てるヒオウギ貝の養殖場を訪ね、地元の方言で苦労話を聞きながら一緒に作業をする。朝一番の魚市場に同行し、地元の人が作る独特な干物を一緒に仕込む。山で無農薬のオリーブや野菜、ハーブを摘み、夕食のソースを作る。さらには、冬の冷たい海を泳いでいかだまで行き来する冒険のようなサップ体験や、自ら薪を割って温まるサウナなど、肉体(フィジカル)に負担をかけるものです。


「フィジカルに負担をかけて、そこから得られるリラックスはものすごく深い。故郷のようなものに触れ、フィジカルも回復する。それがこの旅行の楽しさなのかもしれません」
そう話す覚田さんが目指したのは、ただ心地よく過ごすための空間ではありません。故郷や自然に触れ、自らもその大きな循環の一部であることを体で感じられる場でした。
故郷や自然に触れ、その大きなサイクルの一部分だと自分の体で感じることができる。これは精神的な回復にもつながり再生を感じられる、そういう設計にしたかった」
豪華なベッドや装飾がなくても、フィジカルに負担をかけても、訪れた人々は深い満足感を得て帰っていきます。その鍵を握るのは、スタッフのホスピタリティです。
「このプロジェクトの志に共感して集まったスタッフたちは、お客様とのさりげない距離感や、快適さを常に考えてくれています。結局、体験の質を最高に引き上げるのは『人』のサービスなのです」
覚田さんが話すように、国内外の富裕層トラベルを扱うプロのエージェントたちからも、「トップラグジュアリーの層が求めているのは、まさにこのローカル感と本物の体験だ」と高い評価を受けており、進むべき道に間違いはないと感じています。

漁業×観光、地域に「誇れる仕事」と経済循環を生み出す
このプロジェクトは、環境変化により漁業だけで生計を立てるのが難しくなる時代を見据え、この地域の漁業者自身が観光から利益を得られる仕組みづくりに挑んでいます。
「地域の漁業者にボランティアや趣味の延長で協力してもらうのではなく、しっかりとした『事業』として関わってもらい、意味のある収入を得てもらう。それが何より大事なんです」。
外部からの観光客と関わり、自分たちの仕事が評価されることで、漁業者たちの意識にも劇的な変化が起きています。その象徴が「海ゴミ問題」への取り組みです。廃業した業者が残した養殖ネットやたるなどのゴミは、これまで隠すべきものとされてきました。しかし、宿泊客や外部の参加者と共にゴミを集めるワークショップを行う中で、漁業者は「この海を観光資源として守らなければならない」という環境への責任意識を強く持つようになりました。
「ある時、漁業者が『何世代も続いた良くないサイクルを、自分たちの世代で断ち切るために掃除を始めた』と参加者に語ったんです。それを聞いた参加者は、『あなたたちはヒーローじゃないか!』と称賛しました。この言葉は、地域の誇りを取り戻す大きな転機になりました」
さらに一歩進んで、回収した養殖資材のゴミを特殊な技術でペレット化し、新たな養殖ネットとして海へ戻すという、世界でも類を見ない「クローズドループサイクル(資源循環)」のプラットフォーム作りも進めています。観光客もこの循環の一部に参加することで、エリア全体の価値がさらに高まっていきます。
「若者が『これをしたい』と遠くからでも働きに来たくなるような、魅力と誇りを持てる仕事を作りたい。それが過疎化を止める一つの答えになると思っています」
自らが成功事例となり、面で広げる。次世代に残す英虞湾のエコシステム
「まずは、私がここで成功事例を作ることがいちばん重要です」と覚田さんは語ります。その熱意は着実に周囲へと波及しています。
プロジェクトに携わった地元の事業者たちの中から、「自分も打ち捨てられた養殖小屋を買い取って、船でしか行けない小さな宿をやってみたい」と声を上げる人が出始めました。
「私が全てをやる必要はないんです。私がモデルとなり、同じように土地への思いを持つ人たちが次々と立ち上がることで、英虞湾というエリア全体で『面』の展開が生まれます。水上交通を始める人、自分たちで料理を振る舞う人。それぞれが個性を生かしながら、地域が盛り上がっていく。そうなって初めて、いちばん最初に思い描いた『地域への貢献』が果たせるのだと思います」
一次産業である漁業と、三次産業である観光を見事に掛け合わせ、高付加価値なサービスへと昇華させたこの取り組み。それは単なる宿泊施設の開業という枠を超え、日本全国の課題を抱える地域に大きな勇気を与えます。
真珠の美しさの裏側にある、里海の生態系と人々の営み。その全てを包み隠さず見せ、共に自然のサイクルの一部となることで得られる圧倒的な充足感を体験として届けること。英虞湾の入り江から始まったこの静かな変革は、次世代に豊かな環境と誇りある仕事を残すために、大きな一歩を踏み出しています。
もっとも印象に残った言葉:
「故郷や自然に触れ、その大きなサイクルの一部分だと自分の体で感じることができる。これは精神的な回復にもつながり再生を感じられる、そういう設計にしたかった」
※写真はすべて覚田真珠株式会社提供
企業情報
会社名:覚田真珠株式会社
取材対象:代表取締役社長 覚田譲治さん
創業年:1931(昭和6)年
事業内容:真珠の養殖、加工販売、ホテル事業
所在地:〒516-0074 三重県伊勢市本町7番5号
HP:https://kakudapearl.jp/
宿泊施設:COVA KAKUDA
所在地:〒517-0701三重県志摩市志摩町片田1397-14
HP:https://cova-iseshima.jp/






