あの吉田松陰がなぜか急いだ「平戸街道」をブラブラお散歩【長崎県佐世保市】

2 min 22 views

「葉港(ようこう)」とも呼ばれる佐世保の港。この海が大海原につながり、良港ゆえに戦争の記憶を残す街となりましたが、人々が生活する地元をブラブラ歩くと、そこには戦争とは全く違う歴史の息吹がささやく、多くの人が行き交った平戸街道があります。

そんな歴史深い平戸街道をブラブラするお散歩コースを紹介します。

体育文化館前(バス停)からスタートです。

バス停「体育文化館前」で下車し徒歩でスタート。※佐世保駅前から体育文化館前までは西肥バスで約6分です。

1850年(嘉永3年)、吉田松陰が向学の熱意を抱いて長崎から平戸を目指して雨の中を急ぎ足で歩いたといわれる旧平戸街道に沿って進みます。
15分ほど、道の途中に戦前に築かれた崖や石垣を見ながら進みます。

「旧平戸街道」の石碑と、籠で一気に登るのが大変だった難所「峰坂(みねのさか)」

「旧平戸街道」この石碑の先には長い長い坂道が続き、参勤交代の籠も一気に登るには最大の難所であったという「峰坂」です。

平戸からこの街道を通って標高100mの山祇(やまずみ)から早岐(はいき)を経て、彼杵(そのぎ)で長崎街道につながります。そして長崎街道の北端である小倉からは、はるか江戸へとつながる街道に合流していくのです。

西肥バス山祇線「山祇町」バス停横の信号を渡ってさらに歩いて行きます。

吉田松陰が雨の中歩いた山祇神社

地元の氏神様でもあり、街道を往復する人々の道中安全、烏帽子岳(えぼうしたけ)登山の人々の安全も見守った神社です。馬を休ませたこともあり、付近は馬宿と呼ばれていました。吉田松陰は、向学の熱意を抱いて長崎から平戸を目指して(※1)1850年9月13日、雨の中ここを歩いて行きました。

松陰は戦術、軍術、医術など 萩にいては学べない事を求めて、島原や平戸に出向いたようです。

松陰の「西遊日記(さいゆうにっき)」には、「この日の難儀は実に忘れられない。雨の中を早岐から江迎まで八里、人家もなく、険しい山や坂が続く道ばかりで、その上ぬかるみ道で歩くのが困難であった」と書いています。
山澄地区コミュニティセンター所蔵本「山祇のいま・むかし」の8ページより引用

(※1)山澄地区コミュニティセンター所蔵本「山祇のいま・むかし」の8ページに記載

殿様が一服したかも、「茶屋ノ原」

15分ほど歩くと殿様の駕籠(かご)立て場があります。殿様が標高の高い所から景色を見晴らしながら一服したのでしょうか。「茶屋の坂」と呼ばれる坂道を下り、平戸街道はここまでにして福石観音・清岩寺に向かいます。

十一面観音像と五百羅漢仏が待っている、平戸八景のひとつ福石観音・清岩寺

約1300年前のものとされている「十一面観音像」が安置され、それが福石観音の始まりと考えられています。裏手奥には龍神洞穴があり、五百羅漢仏が安置されており、江戸時代終わり頃に平戸八景の一つとして紹介されています。

西肥バス「福石観音前」からバスに乗ってJR九州、MR松浦鉄道佐世保駅に向かいます。

5分でアーチがデザインされた本土最西端の駅「佐世保駅」で解散です。

歴史の息吹がささやく「平戸街道」の旅はいかがでしたか?

(平山孝子さんの投稿)

ローカリティ! 佐世保小値賀

ローカリティ! 佐世保小値賀

「ローカリティ!佐世保・小値賀」は、公益財団法人佐世保観光コンベンション協会様・株式会社ゼンリン様そして弊社、合同会社イーストタイムズの3社が協同で行った「『海風の国』魅力発掘発信ワークショップ」をきっかけに始まりました。
佐世保市や小値賀町をふるさとだと思う皆様と一緒に、当地域の魅力を発掘・発信しています。観光資源だけではない、地域に関わっているからこそ知る魅力を届けます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です