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高さ16.8メートル。九段下の灯台は当時の「新江戸タワー」だった?
東京という都市は、世界的にみても先進的な都市で、最先端のテクノロジーにあふれているようにみえるが、実は歴史を感じる要素を多く残していることをご存知だろうか。日本では歴史の町といえば京都や奈良を思い浮かべるが、特に戦国時代以降の文化は江戸で発展してきたこともあり、町の至る所で歴史的な遺構(いこう)に触れることができる。
地下鉄の九段下駅から出て、九段坂と呼ばれるゆるやかな坂を登ると、左手に皇居のお堀が見えてくる。お堀の先のライブ会場としても有名な日本武道館を眺めながら坂を登りきると、広い道にかかる歩道橋の隣に灯台のような姿の構造物が見えてくる。この石造りの構造物は「常燈明台(じょうとうみょうだい)」といい、1871年(明治4年)に建造された。
上部は洋風な和洋折衷のつくりとなっており、高さが16.8メートルもあることから、近くで見るとそれなりの迫力を感じる。建設当時は江戸から明治に変わったばかりということもあり、東京の人たちに新しい天皇の権威を見せつけるための「新江戸タワー」としての役割もあったようだ。
急な坂の上から品川沖、東京湾までを照らした「常燈明台」
この「常燈明台」は、当時8キロメートルほど離れた品川沖を出入りする船からも見え、東京湾の漁船の目印になっていたと言われている。現在では近代的な高層ビルが立ち並び、光を阻んでしまうことは理解できるのだが、いくら高い建物がない明治時代とはいえ、そんな遠くの灯りが本当に見えたのだろうか。
実は江戸から明治の頃には、九段坂はとても車や馬が通ることができないほど、急だったといわれている。坂の上からは房総の山々も見渡せるほど眺めが良かったそうだ。そんな坂の上に立っていたからこそ、品川沖の船からも灯りを見ることができたのだ。
しかし関東大震災の後、帝都復興計画により大幅に坂が削られ、今のゆるやかな九段坂となったため、当時の面影はほとんど無い。
戦争で散った霊魂を迎える灯りの役目
またこの「常燈明台」には、本来別の役目があった。この九段坂を登ったところには1889年(明治2年)に国家のために殉難した人の霊を祭る「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ」という神社が建てられた。現在の「靖国神社」である。
よく太平洋戦争での戦死者を祭っていることから話題にあがることの多い靖国神社だが、太平洋戦争だけではなく、明治維新の戊辰戦争以来、西南戦争や日清・日露戦争などの戦争で国家のために戦って散った人の霊が祭られ、その数は246万6千柱を超える。
「常燈明台」はそのような多くの霊たちへの鎮魂の意味を込めて奉納されたものだった。建設当時は靖国神社の正面にあったが、道路の拡幅工事に伴い、1930年(昭和5年)に現在の場所に移転された。
霊たちが迷わずに靖国神社へたどり着くための目印になった「常燈明台」の灯りは、海をゆく人々の目印にもなり、死者にも生者にとっても道しるべとなってきた。そして「常燈明台」は、令和の今でも、日が落ちると柔らかい光であたりを照らし、靖国神社の霊を弔い続けている。