風流で涼しい音が聴こえるなか、清流で肩揉みが始まった。
ここ小国町(おぐにまち)は、山形県の西南端に位置する。東京23区がすっぽり入る広さを誇りながら、その90%以上が森林に覆われた、圧倒的な大自然の中にある小さな町だ。この町の移住者コミュニティで、近ごろ話題になっている人がいる。元セラピストのシェリーあべさん(ペンネーム)だ。前職の経験を生かし、自然に浸りながら町民の疲れをほぐし続けている。移住してきて2年弱、母になって1年。シェリーさんは、なぜ小国町にやってきたのだろう。
目次
もみほぐし屋の原点 ~鬱を経験した自分だからこそ~
シェリーさんは、九州の片田舎で生まれ育った。外の世界へ出てみたいと東京の大学に進学したが、人生を変えてくれたのは留学先で訪れたモンゴルの草原だった。見渡す限り地平線が広がり、太陽が草原の向こう側に落ちていく。真夜中にゲル(モンゴルの移動式住居)を出て見上げると、夜目(よめ)にも白く見える川が流れていた。「天の川が英語で“ミルキーウェイ”と呼ばれる理由が分かった」という。
帰国して休む間もなく、東京で就職活動が始まる。民族衣装から黒いリクルートスーツに衣替え。自分の心から出たものではない言葉を話す。まるで逆カルチャーショックだ。心がどんどん重くなり、生活リズムは狂っていき、気がつくと医者に病名を付けられてしまった。
「こんな自分は、社会の役に立つ人間になれるのだろうか」
どうしたって考えてしまう。しかし周りを見渡すと、自分だけではない、人生の選択ができないほど病んでいる友人ばかりではないか。その瞬間、生まれ育った九州での思い出がよみがえった。おじいちゃんっ子だった自分が、自然の中で祖父とマッサージを交互にやり合って喜んでいる。幸せな記憶だった。あんな風に、楽しみながら周りの人の疲れをほぐしてあげたいと思った。
「自分も鬱を経験したから分かるんです。人の心は、簡単にはケアできない。他人の生活習慣を変えることも難しい。だけど身体をほぐすことは自分にもできる。身体がほぐれたら、少し心が軽くなる。そしたら目の前の友人も、人生の選択ができるかも知れない」
そうしてシェリーさんは、リラクゼーションを運営する会社に就職してセラピストになった。社会で疲弊した心が裸になれる空間を提供したい。遍歴の果てに、自分の中でテーマが鳴り出した。
自然が教えてくれたこと
「お客さんの肩甲骨の奥のコリをほぐすのが快感でした。毎日、技術が向上していくのが楽しくて、本当にこの仕事が好きなんだなぁと思いました」
気がつけば、頭のてっぺんから足の爪先までほぐせる技術が身に付いていた。歩くように、息をするように、健やかに、毎日、お客さんの身体をほぐした。東京で5年間勤務した後、鹿児島の新規事業で役職に任命された。仕事のやりがいは大きかったが、慢性的な人手不足が深刻だった。数年経つと、東京で就職活動していた時のように心が重たくなっていた。
東京時代と違ったところは、目の前に海が広がっていたこと。憂鬱な気分でも海に潜れば、心が軽くなる感覚を覚えた。自然の力に救われる毎日だった。
「どれだけ技術を身につけても、自然のヒーリングパワーには敵いません。裸足になって砂浜を歩くだけでも、体に溜まった電気が大地に流れて、逆に地球からエネルギーが身体に入ってくるんです」
自分の技術と自然のパワーを掛け合わせられたら、新しいリラクゼーションが生まれるかも知れない。時間があればお客さんを砂浜に連れていって身体をほぐした。効果は、絶大だった。
鹿児島での生活も5年が経とうとしていた。この地で結婚し、家庭を持った。仲間からは「技術があるんだから、独立しないのか」と声をかけられることもあった。これからどう生きるべきか、何がしたいのか、すでに萌芽は見つかっていた。損得勘定なしで、大自然のなかで『もみほぐし屋』をやる。夫の祖父の実家、山形県小国町の山奥に何度か足を運び、移住を決めた。出会う人々の心を洗濯して、人生の選択のお手伝いをしたい。新しい探検が始まった。
移住者コミュニティで一躍有名人に
まるで必殺技の名前みたいだ。
「春:山桜ハンモック突上げ腰もみ」
「夏:清流足流し肩もみ」
「秋:落ち葉クッションヘッドスパ」
「冬:白銀雪景色足裏攻め」
今の時期は「清流足流し肩もみ」。客人は自然の声に耳をすませ、裸足を川底につけたなら、シェリーさんのもみほぐしの始まりだ。おおらかな、ふと力が抜けるような、生きていく背中を押すような、指圧。肺臓に大量の空気が入ってくる。
「自然のなかに身を置くと、魂が洗われますよね。自分が何者でもなく、裸の心で、ただここに存在している感覚。それが何より幸せだと思うんです」
裸足になって直接大地に触れる健康法は”アーシング(別名グラウンディング)”と呼ばれる。自律神経やホルモンバランスが整ってよく眠れるようになるなど、様々な効果が報告がされているという。そんなアーシングを実施しながら、しかし、シェリーさんは健康や美容にあまり興味がない。
「わたしはただ、社会で疲れた人の身体をほぐしたいだけなんです」
シェリーさんのもみほぐしを受けにくるのは、小国町の移住者コミュニティ“つむぐ”メンバーが中心。“つむぐ”は昨年9月に設立され、現在メンバー約40名。面白い人が居れば、面白い人が集まってくる。メンバーは刺繍作家、農家にコーヒーマイスター、YouTuberなど多様なバックグラウンドを持つ人たちが揃った。月1回程度、芋煮会や各業界の勉強会を、各自の特技を活かしながら企画している。大地に寄り添う『もみほぐし屋さん』が加入したことで、一人ひとりの挑戦が加速中だ。
小国町移住者コミュニティ『つむぐ』Facebookページ
https://www.facebook.com/tumugu.oguni
母として
シェリーさんは、小国町に移住してから母になった。
「ピチャピチャピチャッ!たららららっ!ちめたいちめたい!」
河原で水遊びする娘の千草(ペンネーム)は、1歳なのによく走る。この勢いのまま、大人になったら田舎を飛び出してしまうのではないか。勝手な心配は野暮だった。
「この子の人生は、この子が選択することですから」
自然の中で育まれた魂は、いったいどんな人生を選択するだろう。肩書きなんてなくても構わない。母として、子どもに押し付けるものなど何一つない。シェリーさんは、千草を抱き抱えて笑った。山あいから吹き込む風が頬をかすめる。
「今の時間が、この子にとって楽しい記憶になりますように」とだけ願った。
シェリーあべさんインスタグラム