私には忘れられない木がある。秋田県能代市二ツ井町仁鮒(にぶな)にある、「銀杏山(いちょうさん)神社」に息づく「連理の銀杏」だ。樹齢300年以上ともいわれるそれは、大きな口をカッと開いて隣の銀杏の幹に噛みつき、そのくせ目は今にも泣きそうな、哀れみを誘う表情を浮かべている。
うっそうとした境内を、落ち葉を踏みしめながら奥へ奥へと歩いていくと、2体繋がった銀杏の大木がある。これが「連理の銀杏」だ。
この木には、境内入り口近くにそびえる「乳柱(ちばしら)の銀杏」の隣に立っていた男銀杏が、境内奥の女銀杏の隣へと、一夜にして移ってしまったという言い伝えがある。本妻のもとから妾宅へ移り、そのまま居座るうちに離れがたい形状になったというわけだ。
この女木を初めて見たときの衝撃は忘れられない。恋うる相手とつながっているのに、決して幸福そうに見えない、むしろ情念をむき出しにして必死に噛みついている、帰らないでくれと心で泣いている、彼女の表情にくぎ付けになったのは、自分と似たものをそこに見てしまったからだ。
さて、二ツ井町といえば、桜や紅葉の並木道を散策できる自然公園「きみまち阪県立自然公園」である。その昔、明治天皇が東北を訪れた際に、皇后から送られた手紙を読んだと言われるこの公園には、ハートのオブジェや「きみ恋カフェ」などの映えスポットがある。また、日本初の「恋文コンテスト」での受賞作品を単行本化した、「日本一心のこもった恋文」を生んだ町でもある。そう、二ツ井町は恋の町なのだ。
しかし私は、決して表舞台に出ることなく、数百年噛みつき続けているこの女木の表情にこそ、恋心の激しさを感じる。恋がいつも、太陽の下でばかり醸成されるとは限らない。
秋はもちろんのこと、緑の頃の銀杏山神社もまた良い。時間が止まったような静謐(せいひつ)に包まれたくて、彼女の存在を確かめたくて、毎年季節を問わずここに足を運んでいる。2体繋がった輪の中を八の字に三度くぐると、願いごとが叶うといわれているファンタジーを信じて、私はこれからも何度でも訪ねるだろう。自分ができなかったことを「やってしまっている」彼女に、恐れおののきながら。