漫画家の故・水木しげるさんは、代表作『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するキャラクターなど多数のオブジェが設置されている『水木しげるロード』や『水木しげる記念館』がある鳥取県の港町、境港市育ちですが、少年時代、お父さんの仕事の関係で戦前の一時期、現在の兵庫県丹波篠山市(当時は多紀郡篠山町)に住んでいたことがありました。
彼は篠山軽便鉄道と国鉄福知山線を乗り継いで大阪の美術学校まで通学していたとのことでした。
しかし、少しばかりサボり癖があったのでしょうか、学校に行く代わりに、丹波篠山界隈の寺社を歩き回ってはスケッチをしたり空想したりすることも多かったようです。
生前の水木しげるさん曰く、丹波篠山では多くの妖精や妖怪に出会ったそうです。
ひょっとすると、もし水木さんが丹波篠山での暮らしを経験しなかったら、『ゲゲゲの鬼太郎』という作品は生まれていなかったかもしれません。
先人が名付けた「怪談七不思議」の面白いバケモノたちを世界に発信
全国に数ある小京都と呼ばれる城下町の一つ、兵庫県丹波篠山市には、今も怪談七不思議が伝わっています。果たして水木さんがそれらを目撃したのかどうかは、今となっては知る由もありませんが、去る11月24日(日)、以前から筆者自らもイベントに参加しながら同時に取材もしたいと申し込んでいた、丹波篠山市立中央図書館で開催された『ウィキペディアタウン in 丹波篠山~篠山の怪談七不思議~』に加わってきました。
図書館職員さんが考案された「篠山の怪談七不思議」を調査し、インターネット上の百科事典「ウィキペディア」に記事を書いて世界に発信するというイベントで、図書館がいろいろと調べものにも使えることを皆さんに知ってもらいたいという趣旨もあり、京都府京丹後市や愛知県名古屋市からウィキペディアの編集熟練者の方たちも参加されました。
イベントでは図書館の公用車で市内を回りながら、妖怪たちが現れたとされる現場を散策しながら、職員の方たちの説明を聞いたり、写真撮影などを行いました。
それにしても、昔の丹波篠山の人たちというのは想像力もユーモアも豊かだったことがうかがわれるような、面白い名前のバケモノばかりで、中には誰も正体を知らないのに名前だけが独り歩きしていたと思われる妖怪までありました。
最後にウィキペディアの丹波篠山市の項に、それら怪談の記述を参加者で手分けして行い、お開きとなりました。
以下の丹波篠山の妖怪については、1958年刊行の奥田楽々斎(1960年没)が著した『多紀郷土史考 下巻』を参考にしました。著者は地元のいわゆる道楽好きなおじさんだったそうです。
「丹波篠山の妖怪七不思議」怪談の舞台
観音橋の夜泣榎
城下町郊外の若者たちが篠山の町に夜遊びに出てきて、夜中に帰る際には観音橋という小さな橋を渡らなければならない。その橋の傍らに樹齢350年ほどの榎(えのき)があったのだが、それがさも悲しそうな声で泣くのである。雨の夜は一層泣いたという。それを聞くや若者たちは一目散に逃げたのだという。
土手裏のおちょぼ
おちょぼというからには女の子らしい。
土手裏とは加古川水系の支流・篠山川に沿った土手の裏のことで、観音寺前の路地から京口橋までの裏道のことである。
夜になればその道は闇夜である。
そんなところでおかっぱ頭のおちょぼに出会うのだ。
つい、「ねえちゃんどこ行くの?」などと声をかけるとえらいことになる。
振り向いた顔を見ると、夜目にもはっきりと見えるのっぺらぼうなのだ。
川ン丁の鼻黒
川ン丁とは、梅の小路橋から篠山川の支流である黒岡川に沿った小川町までの間のことである。
「川の町」が転訛(てんか)して「川ン丁」になったという。
ここの怪物はもう一つ正体がはっきりしないそうだが、いずれにしろ鼻の頭の黒いやつに違いあるまい。
そこからほど近い王地山稲荷神社の開帳の際などに、地元民の間では「砂持ちせんもの鼻黒じゃ」と盛んに言われる。
『大阪伝承地誌集成』によると、大阪府大阪市の玉造神社の砂持行事(川から土砂を運んで神社の土地を平坦にする)の際、商売以外に関心がなかった傘屋の若旦那を、近所の若者たちが砂持ならば出てくるだろうと踏んで連れ出そうとしたものの失敗し、腹いせに墨を投げつけたら鼻が黒くなったのが「鼻黒」の由来の一つともいわれる。
坪井の榧の木
城下町中心部にある一軒の屋敷は、坪井という旧士族の家であった。そこの塀の内側には五つ抱えもあろうという榧(かや)の大木があり、古木だけにいささかの幽気を含んでいたという。
その下を夜分に通ると、なんとこの木の上から生首が落ちてきたという。これには驚かない者はいない。
しかし、これはトリックで、あらかじめ縄で徳利に毛を貼り付けたものを吊っておき、タイミングを見て縄をゆるめて落としたというのである。
これは後でわかったことらしいが、ツルベ落としと呼んで怪談の一つになっていた。
田代の前
田代というのは先述の坪井家の南にあり、東の馬出しの堀に沿って西に行くところに田代という人物の邸宅があった。
しかしここは北向きの家だったので、前の道が凍るととても足場が悪かったらしい。
いつからか人々はこう言っては通る者を戒めたという。
「思うても田代の前は通るなよ昼はいてどけ夜は化物」
一本松の見越の入道
一本松とは現在の田園交響ホール横の広場にあったという松である。
雨の降る夜に傘をさしてここを通ると、にわかに傘が重くなるので傘を見ると、後ろから傘を越して大入道がゲラゲラと笑うらしい。相当ものすごいやつだという。
番所橋の酒買い小僧
番所橋は西町にある妙福寺の東を南北に流れる川にかかる橋である。旧・篠山藩時代に番所があった名残である。
雨がショボショボと降る晩になると、三尺足らずの背丈の小僧が裸足でピチャピチャと徳利をさげて通る。何となく背筋が寒くなる。
うっかり顔を見ると一つ目小僧なので、屈強な武士でも腰を抜かすほどだったという。
※写真は全て11月24日筆者撮影