はなはだ個人的な話で心苦しいが、筆者の家に残された数少ない古文書を眺めていて、「先祖は会津牢人(ろうにん)」という記述が目に留まった。親族からは「仙台藩の陪臣(ばいしん、大名の家臣)」と聞かされていたのに、これはどういうことか。疑問を抱いて幾つかの資料に当たってみたところ、どうやら祖先は会津を領していた戦国大名、蘆名(あしな)氏の家臣だったようだ。
蘆名氏は1589(天正17)年、磐梯山の山麓に位置する摺上原(すりあげはら、福島県磐梯町・猪苗代町)で伊達政宗の軍と合戦し、大敗する。この「摺上原の戦い」で政宗は南奥羽の覇権を確立。一方の蘆名氏は滅亡し、蘆名の旧臣は伊達氏に服属した。祖先も仙台領に流れて、やがて政宗と側室との間に生まれた亘理宗根(わたり・むねもと)に仕えたらしい。
わが祖先が軍門に下った仙台藩祖の伊達政宗とは、いかなる武将で、どのような容貌(ようぼう)をしていたのか。筆者は宮城県内にある政宗像を巡ってみた。
政宗像として誰もが真っ先に思い浮かべるのは、仙台城(青葉城)の本丸跡に立つ騎馬像だろう。没後300年祭の記念事業として宮城県連合青年団が呼び掛け、1935(昭和10)年に建立された。
甲冑(かっちゅう)をまとい愛馬にまたがったブロンズ像は、高さ約4・2㍍、重さ4・5㌧。制作者の小室達(こむろ・とおる)は槻木村(宮城県柴田町)の出身で、東京美術学校(現・東京芸術大学)を首席で卒業した気鋭の彫刻家だった。
現在の騎馬像は実は2代目で、初代の銅像は太平洋戦争下の金属供出によって1944(昭和19)年に「出陣」してしまった。やがて市民の間に騎馬像復元の機運が高まり、柴田町にあった石膏(せっこう)原型を元に1964(昭和39)年、2代目が仙台城跡に再建された。
初代の騎馬像は溶解されたと思われたが、戦後になって地元の郷土史家が県内の金属回収所で胸像部分を発見。私費を投じて買い取り、後に仙台市に寄贈された。現在は広瀬川に面した三の丸跡に設置されている。
豊臣秀吉の「奥州仕置」によって政宗が移封された大崎市岩出山の城山公園には、白色セメント製の立像が置かれている。この政宗像は主を失った仙台城跡の騎馬像台座に1953(昭和28)年、セメント会社が寄贈したもので作者は彫刻家の柳原義達。2代目騎馬像が再建されたことで、岩出山の城跡に移設された。
政宗は幼少時に疱瘡(天然痘)で右目の視力を失ってしまう。唐の武将、隻眼の李克用にちなんだ「独眼竜」の異名はよく知られているが、政宗像はいずれも両眼を見開いている。これは「肖像画や木像には両目を入れるように」という政宗の遺言が関係しているらしい。
日本三景「松島」の名刹、瑞巌寺(ずいがんじ)。伊達家の菩提寺であるこの寺には、政宗の十七回忌に当たり正室の陽徳院(愛姫・めごひめ)が京の仏師に造らせた「木造伊達政宗倚像(いぞう)」が安置されている。
陽徳院の記憶をもとに再現したもので、現存する政宗像の中で最も写実的な作品と言われている。この像も右目はやや小さいものの両目が入っている。甲冑姿だが猛将というイメージとは裏腹にその表情は穏やかで、和歌や茶の湯、能楽をたしなんだ文化人としての政宗の人柄が感じられる。