
ジャカルタのチャイナタウン(グロドック地区)を歩くと、まず違和感を覚える。
赤いちょうちんが下がり、春節の装飾が並び、獅子舞の音が響く。にもかかわらず、そこにあるはずの「漢字」がほとんど見当たらないのである。
看板にはインドネシア語。店名も英字表記。
個人経営店を中心に少しずつ中国語表記も増えてきているとはいえ、中華街であるなら、やはり漢字が少なすぎる。
アメリカやイギリス、日本にもチャイナタウンはあるが、それらの国と比べてみても、これは極めて珍しい風景である。

目次
漢字が消えた理由――「9月30日事件」という影
この背景には、1965年に起きた「9月30日事件」がある。
当時、インドネシアでは国軍と共産党の対立が激化していた。クーデター未遂事件をきっかけに、軍は共産党関係者の大量弾圧に踏み切る。結果として、50万人とも200万人ともいわれる人々が犠牲となった。
その過程で、中国系住民にも強い疑念の目が向けられた。
共産党と中国との関係性が意識され、「華人=共産主義者」という短絡的な認識が社会に広がったとされる。この流れの中で、漢字や中国文化は「危険なもの」と、みなされるようになった。

スハルト政権下で進んだ“文化の抑圧”
1966年にスハルト政権(大統領スハルト)が実権を掌握すると、中国文化に対する規制は制度化される。
中国語教育は禁止され、新聞や書籍の発行も制限された。看板や広告への漢字使用も事実上認められなくなった。
家庭内では中国語が使われていても、公共空間では沈黙を強いられた。
チャイナタウンは存在しても、「中国らしさ」は表に出せなかったのである。この抑圧は約30年にわたって続いた。
そして1998年、民主化によって規制は撤廃された。
旧正月も祝日となり、中国文化は再び公の場に戻ることが許された。
しかし、漢字は戻らなかった。
長年の抑圧によって、多くの人々は中国語を読めなくなっていた。世代交代も進み、漢字を使う必然性そのものが失われていたのである。
結果として、現在のジャカルタ・チャイナタウンは「中国文化はあるが、中国語は(ほとんど)ない」という独特の形に落ち着いた。

旧正月に広がる、静かな祝祭空間
旧正月になると、街は確かに華やぐ。
赤い飾り、爆竹の音、獅子舞、寺院の線香の香り。人々は家族で集まり、祈りを捧げ、食事を囲む。
しかし、そこに過剰な演出はない。
派手なネオンサインも、大型イベントも少ない。
祝っているのは主に「この街に生きてきた人々自身」である。
観光向けに誇張された中華街とは異なり、ここには生活の延長としての旧正月がある。



この街では、文字よりも人々の表情や動作が多くを語る。
祈る手、線香の煙、屋台の湯気、子どもの笑顔。
それらは、語られなかった歴史の延長線上に存在している。
漢字がないのは、文化が薄れたからではない。
むしろ、長い沈黙を経てなお残った「形を変えた記憶」なのである。
旧正月のにぎわいの奥に、語られなかった時間がある。
それを意識して歩くと、この街はまったく違って見えてくる。



筆者おすすめである餃子屋さんの看板も英字表記
※写真動画は全て筆者が撮影(2026.02.08)





