フランスを訪れることが決まってから、Netflixのドラマ『エミリー、パリへ行く(Emily in Paris)』シーズン1を一気見した。シカゴからパリへ移住した主人公エミリーの生活を描くコメディドラマである。
華やかな観光スポットが数多く登場するなか、筆者が特に気になる場所があった。
パリ18区、モンマルトルの丘にある「リュ・ド・ラブルヴォワール(Rue de l’Abreuvoir)」という坂道で、実際に訪問することができた
カルナバレ美術館が所蔵する1912年の絵画の解説には、左側には家々や小屋が立ち並び、右側には「フォリー・サンドラン(Folie-Sandrin)」公園が広がる。坂の先にはカンパニール(鐘楼)とサクレ・クール寺院のドームが見えると記されている。

目次
「終わりへ続く道」と呼ばれる場所
『エミリー、パリへ行く』第5話の終盤、エミリーと親友ミンディーが歩くモンマルトルの風景の中に、この坂道が登場する。
印象に残ったのが、「ここは終わりへ続く道(The road which leads to the end)と呼ばれているのよ」とミンディーが話す場面である。
このときエミリーは、上司からInstagramのアカウントを削除するよう命じられた直後だった。二人はモンマルトルへ繰り出し、写真を撮りながら夜を過ごす。

では、なぜこの道は「終わりへ続く道」と呼ばれているのだろうか。
気になって調べてみると、パリ市立カルナヴァレ美術館の資料に、この道の興味深い歴史が記されていた。
カルナヴァレ美術館の資料によれば、現在のRue de l’Abreuvoirは、1325年には「Ruelle qui va au But」という名前で記録されている。
フランス語の「but」は、英語の「but」とは異なり、「目的」や「目標」「到達点」といった意味を持つ言葉である。
そのため「Ruelle qui va au But」は、直訳すれば「目的地へ向かう小道」とも読める。
つまり、ドラマで使われた「The road which leads to the end」という表現は、歴史上の名称をそのまま直訳したというより、物語としての響きを持たせた意訳なのかもしれない。少なくとも、筆者はそう受け取った。
そして興味深いことに、この道には、実際に明確な「目的地」があった。
カルナヴァレ美術館「La Rue de l’Abreuvoir, sous la neige, en 1912」

カルナヴァレ美術館の資料によれば、かつてこの道はモンマルトルの丘で放牧されていた家畜の群れが、水飲み場へ向かうために頻繁に利用していたという。
そして1672年、この「水飲み場」を意味する「abreuvoir」に由来して、道は現在の「Rue de l’Abreuvoir」という名前になった。
つまり、現在は観光客がカメラを手に歩く美しい坂道も、かつては人間だけのための道ではなかった。
丘の上で草をはむ家畜がいて、それを追う人がいて、動物たちが水を求めてこの坂を下っていたのである。

モンマルトルは、もともと「パリ」ではなかった
この歴史を知ると、モンマルトルの街並みが少し違って見えてくる。
18世紀ごろのモンマルトルの丘には、風車、農場、ぶどう畑、採石場などが存在していたという。
現在の華やかな観光地からは想像しにくいが、かつてのモンマルトルには、都市というよりも「丘の上の村」に近い風景が広がっていたのである。
1860年には、モンマルトルとラ・シャペルがパリに編入され、現在の18区が形成されていった。

Rue de l’Abreuvoirを歩いていて、筆者が特に引かれたのは石畳だった。
道の中央に残るわだちである。
もちろん、現在見えているわだちのすべてが何百年も前から残っているわけではない。しかし、この道そのものが長い時間にわたって、多くの人や動物、乗り物を受け止めてきたことは想像できる。
かつては家畜が歩き、人が歩いていた。
時代が変われば、馬車が通り、やがて自動車が通る。
筆者が訪れた日には、一台の古いフランス車がその坂道を下っていた。
その光景を見たとき、現在の車と、かつてこの道を歩いた家畜たちが、一枚の写真の中で不思議につながったように感じた。
光が斜めから差し込むと、普段なら見過ごしてしまう石畳の凹凸が浮かび上がる。
ただの道路だったものが、時間を記録した地面に見えてくる。

美しい通りを歩くということ
Rue de l’Abreuvoirは、現在ではモンマルトルを代表する美しい風景の一つとして知られている。
淡い色の建物、石畳、坂道。そして、その先に見えるサクレ・クール寺院。
近くには、ピンク色の外観で知られるカフェ・レストランLa Maison Rose(ラ・メゾン・ローズ)などもある。
Netflixの公式サイトでも、これらは『エミリー、パリへ行く』の撮影場所として紹介されている。
しかし、この場所の面白さは、写真映えする風景だけではない。
モンマルトルには現在も「村」のような雰囲気を感じさせる場所が残っている。かつて風車や農場、ぶどう畑があった丘には、現在もその地形と街路の記憶が残されているのである。

目的地へ向かうための道だった場所が、今ではその道自体を目的に人が訪れる。
旅では、目的地に到着することばかりを考えてしまう。
しかし、ときには「そこへ向かう道」そのものに、その土地を知る手がかりが隠れているかもしれない。
モンマルトルを訪れたなら、ぜひ一度、視線を上げるだけでなく、足元にも目を向けてみてほしい。

※写真はすべて筆者が撮影(2026年5月29日)





