
日本を代表する歓楽街、新宿・歌舞伎町を歩いている時に、「歌舞伎の劇場」がひとつもないことに気付いた。歌舞伎町という名前の由来をほとんどの人々は知らないのではないか。この疑問から歴史をひも解くと、かつては焼け野原であった場所を、人々が楽しめる「道義的繁華街」にしようとした人物がいたことにたどり着いた。
私が抱いた小さな違和感から判明した、日本一の歓楽街のルーツと、幻に終わった劇場構想がに込められた復興への思い を街の歴史とともにたどる。

目次
まるで迷宮に迷い込んだように奥へと誘い込まれる歌舞伎町
歌舞伎町の最大の魅力は、足を踏み入れた途端に感じる「奥へ奥へと誘い込まれるような魔力」だ。碁盤の目のような整然とした道ではなく、「T字路」が多いのが特徴。視界が遮られることで、「この先には何があるんだろう?」という好奇心が刺激され、まるで迷宮に迷い込んだかのようなワクワク感や、エネルギッシュな熱気に包まれる。
一面の焼け野原からの復興
歌舞伎町という名前の由来を知るため、歌舞伎町の歴史を記した文献や資料を調べた。そこから見えてきたのは、東京大空襲で焼け野原となった街を、娯楽の力で復興させようとした人々の構想だった。
1945年、東京大空襲によってこの一帯は一面の焼け野原となった。すべてを失った悲しみの中、終戦直後の町会長・鈴木喜兵衛(すずききへい)氏は終戦からわずか5日後に街の復興計画を立ち上げた。それは、焦土に娯楽施設を集め、人々を笑顔にする「道義的繁華街」を創るという壮大な夢だった。
その目玉として計画されたのが「菊座」という巨大な歌舞伎劇場の建設である。この構想を聞いた当時の東京都の都市計画担当・石川栄耀(いしかわひであき)氏が、「歌舞伎の劇場を建てるなら、いっそ街の名前を『歌舞伎町』にしてはどうか」と提案。これが現在の名前の由来となった。
復興計画の特徴は、娯楽施設を集めることだけではなかった。街区にはT字路が多く取り入れられ、外からの視線を遮りながら、街の中に広場のような空間をつくる「景観の封閉」が意識されていたという。道の先が見通せないため、歩くたびに新たな風景が現れる。この街区構造は現在まで残り、歌舞伎町特有の迷路を歩くような感覚を生み出しているのだ。
だが、戦後の深刻な物資不足と資金難、さらには政府からの「大型娯楽施設への建築制限」により、肝心の歌舞伎劇場計画は幻となってしまう。それでも鈴木氏の情熱は消えることなく、映画館やスケートリンク、のちの新宿コマ劇場などを次々と誘致。劇場は建たずとも「歌舞伎町」という名前だけが残り、その名の通り、日本一のエンターテインメントの街へと成長していった。
大きな転換点を迎えた歌舞伎町
かつては「危険な歓楽街」というイメージが先行したが、現在の歌舞伎町は大きな転換期を迎えている。
2023年4月、街の新たなシンボルとして地上48階、高さ約225メートルの「東急歌舞伎町タワー」が開業した。館内には、映画館「109シネマズプレミアム新宿」をはじめ約900席を備えた劇場「THEATER MILANO-Za」、最大約1500人を収容するライブホール「Zepp Shinjuku(TOKYO)」ナイトエンターテインメント施設「ZEROTOKYO」、二つのホテルなどが入る。
実際に歌舞伎町タワーを訪れると、これまで抱いていた「怖い街」というイメージとは違う印象を受けた。映画館や劇場、ライブホールが一つの建物に集まり、家族連れや観光客の姿も多く、昼夜を問わず幅広い人が楽しめる場所になっていると感じた。かつて劇場の構想が実現しなかった歌舞伎町に、こうして劇場が入ったことに、街の歴史の重みを感じた。
鈴木喜兵衛氏が夢見たのは、誰もが安心して楽しめる健全な「道義的繁華街」。劇場が建たなかった焦土から約80年、時代は巡り、歌舞伎町は夜の街としての顔だけでなく、芸術や音楽、最新のエンタメを発信する街へと進化し続けている。幻に終わった「歌舞伎の街」という構想は、約80年の時を経て、形を変えながらいま再び花開こうとしている。
参考資料:すごい!新宿・歌舞伎町の歴史 進化し続けるカルチャータウン 橋口 敏男





