2019年、ゴールデンウイーク直前のことだった。およそ400本のしだれ桜に彩られる武家屋敷通りを観光名所とする、秋田県仙北市角館町にあるそのラーメン店は、一足先に桜見物に訪れた客でにぎわっていた。この日から1年後にコロナ旋風が吹き荒れようとは、誰も予想しなかった2年前の4月下旬である。
「これからどちらに行かれるんですか?」
夫と2人、ラーメンを食べてレジで会計を終えると、長身をかがめながら若い男性従業員が聞いてきた。「水芭蕉を見に」と筆者。すると彼は破顔一笑、「あぁ良かった!実は桜がまだ咲いていないんですよ。あと3日くらいかと思うんですけど…。ぜひ水芭蕉の後はカタクリの花も見に行ってください!そして、3日後にまた桜を見に来てください!」
そう、この辺りの見どころは桜だけではない。角館町から車で20分も走ると刺巻湿原の水芭蕉が、また八津・鎌足地区には20ヘクタール(東京ドームおよそ4.2個分)に及ぶ広さのカタクリ群生地があり、花々の群れを存分に楽しめるスポットが満載だ。
しかし驚いたのは、先のセリフを観光案内所の人間ではなく、ラーメン店の従業員が言ったということである。案内所より熱のこもったPRではないか!3日後にまた来い、に至っては、筆者らがここからおよそ60キロ離れた秋田市から来ていることなどお構いなしだ。
よほど自分の住む角館町が好きなのか、接客が好きなのか、仕事が好きなのか、たぶん全部だろう。席について最初に聞いた、「ご注文が決まったら、呼んでくださいね」という声掛けも、繰り返されたマニュアル言葉ではないことが言い方で分かった。本当は、どうしてもここに行きたいと言う夫に、角館まで来てラーメンかと思いながらついて行ったのだが、どんな洒落た店に行くより気分が良かった。
接客はこうでなきゃ、などと言うつもりはない。でも、自分の町や、働く場所や、そこに訪れる人たちを愛すれば、そんな自分もまた関わる人に愛されるということだ。彼の言葉、動き、目の表情は、またここに来ようと思うファンを確実に1人増やした。そして、後日談になるが、私がこの体験をSNSに載せたところ、研修講師をする知り合いから、自分が主催するおもてなしの講座で投稿を紹介してもよいかと連絡が来た。むろん快諾し、この話は接客やマナーを学ぶ見知らぬ人たちにも伝わることとなった。彼が全く自然体で何気なく言った言葉は、いったい何人に響いたのだろう。
従業員不足で田舎の飲食店は閉店に追い込まれるところもある中、こんなふうに働く人がいる。“今、楽しくてたまらない”、彼の笑顔と、「ありがとうございました!」からは、そんな気持ちが背中にまで届いた。
それから2年たち、その店に行ってみた。クラブ活動帰りの高校生や常連らしき客で混んでおり、厨房では従業員がマスク姿で無駄口ひとつきかず手早くラーメンを作っていた。客には目立たぬよう内側の壁に、「(厨房内は)私語厳禁」の貼り紙。もう、あの従業員が誰なのか分からない。
観光地の本当の春は残念ながらもう少し先のようだが、どうか踏ん張ってほしい。花と人でにぎわう角館町に、いつか皆帰りたいのだから。そしてカタクリの花は、たとえ誰も見ていなくても、うつむきながらも花びらだけはエイヤッと天に向けて、今も咲いているのだから。