さて今回は私の地元、秋田県大仙市にある温泉の一つ、樅峰苑(しょうほうえん・旧小山田邸)を紹介します。
樅峰苑は大正3年(1914年)3月の強首(こわくび)大地震で倒壊した後、3年の歳月をかけて大正6年(1917年)に竣工した建物で、敷地面積約2,000坪、建築面積約200坪、建物の高さが約15メートルの耐震家屋です。
屋根は、入母屋造りの千鳥破風で表玄関の唐破風と共に大城郭を思わせる重厚さが見られます。また、庭園には大仙市の指定天然記念物の「モミの木群5本」が植えられており、樹齢400年を越えています。原産は京都で、群生は県内でも珍しいそうです。
また、建物自体が国の有形文化財に登録されており、登録基準に「造形の規範となっているもの」、「再現する事が容易でないもの」等があり、次の部分が優れているとして、1棟が登録されています。
- 秋田地方にみられる豪農の住宅形式
- 優れた装飾部分を持つ大規模な表玄関
- 優れた欄間彫刻を持つ書院
- 1階大広間に着脱可能な中央柱を設置するという優れた構造技術
- 洋風手すり。折り上げ・船底天井、擬洋風的持送りを使用する等、優れた技術、技能を生かした階段室
実際に建物の中に入ってみると古風でありながらも落ち着いた雰囲気です。
日帰り入浴の料金は650円。この日は平日だった事もあり、私以外のお客さんは温泉に来ておらず、貸し切りで温泉を満喫できました!!
樅峰苑の泉質は、世界的にも珍しいとされる、「含よう素-ナトリウム-塩化物強塩温泉」で温泉成分が濃いのが特徴です。切り傷、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症、筋肉痛、関節痛、腰痛症、神経痛、糖尿病、病後回復期、疲労回復、健康増進に効能があります。
小山田家の概要と歴史
かつて小山田家は秋田・河辺・仙北・由利の1市3郡にまたがった田地を所有しており、戦前は約450ヘクタールの大地主でした。小山田家の家名は「治右衛門」で、代々の当主はほとんどが家名を継いでいました。他に「治兵衛」・「助右衛門」・「伊右衛門」・「伊左衛門」等があります。家紋は「左二つ巴」の紋です。
その歴史は古く、慶長7年(1602年)に秋田藩初代の藩主佐竹義宣公が、国替えによって常陸国水戸(今の茨城県)から出羽国秋田に移封された当時に旧藩主を慕って秋田に来たと言われ、初めは西木村の小山田部落(西明寺村を親郷とする小山田村)に住んでいましたが、その後開田と水運の便を考えて強首村に移住し、定着したと伝えられています。
藩政時代は侍や村役人の居所をわかりやすくするために、その屋敷にモミの木を植えさせたといわれています。それを物語るようにモミの木群が庭園にそびえています。
小山田家は藩政前期(17世紀後半)から強首村の肝煎(きもいり。ここでいう肝煎とは村政全般を担当する村役人の長で名主・庄屋ともいう)や他の領地との境を守る拠人(こにん)として、地域の行政の中心で活躍すると共に、藩主や藩重役の領内巡視にあたって御本陣(藩主の宿泊所)を務めました。現在もそれを物語るように「お殿様弁当箱」や「小山田治衛門家文書」1,494点、「六郡御絵図」(いずれも大仙市指定有形文化財に登録)が保存されています。
文政9(1826)年5月に当時の小山田家の当主「小山田文五郎」が記述した「言伝覚(いいつたえおぼえ)」には、
「一、寛文十二子の年(1672年)先祖治右衛門、右は上野台の矢島領との御論地(境争い)の儀に付き、長(おとな)百姓より江戸表へまかり登り、出入り(江戸に出府して)三ヶ年でまかり下り、御公事御理運(幕府による裁判の結果が有利と判明)のため、御賞として絵図の拠人に召し立てられ、云々」 と、300年前に境論解決のため江戸で働き、その功績によって拠人になったとあります。
またその時の目安状(訴状)に対する強首村からの返答書には、名主(肝煎)「甚助」と共に組頭「治右衛門」と記名捺印しています。
こうした事から先の「先祖治右衛門」というのは、強首村に定住した初代を指していると考えられ、1650年代の承応・明暦の頃とされます。
また、「寛文年中より当年まで、出入り百五十九ヶ年拠人御役を仰せ付けられ相勤め申し候、云々」とあり、拠人役を当時まで159年間続けていたとあって、藩境の守護と小山田家の関係の深さがうかがわれます。
小山田家は延宝以後、強首村を始めとするこの地域一帯の開発のために尽力、強首田園等の美田を開く一方、雄物川流域を商業圏とする造り酒屋を江戸後期から約50年間営んでいました。
小山田家10代「小山田文五郎」の後は11代「小山田治右衛門(強首村の村長)」、12代「小山田治右衛門(秋田県議会議員・強首村村長を兼任)」、13代「小山田貞虎(秋田県議会議員を1期務める)」、14代「小山田義孝(衆議院議員・陸軍参与菅・秋田県議会議員・西仙北町長・強首村村長等を務め、昭和56年に勲三等瑞宝章を叙勲)、15代「小山田巍(新日本証券株式会社の前身である玉塚証券秋田支店長に赴任、39歳で急逝)と続き、現在は小山田明さんが家督を相続しています。
強首の地名について
秋田藩の地誌を記録した菅江真澄の「月の出羽路」によると、剛強勁(こわくび)の地名について村人に聞いたところ、「この村は慶長初めまで『強巻(こわまき)』と言っていた。川向には『逆巻(さかまき)』『石巻(いしまき)』等の地名もある。雄物川がこの付近で急流となり渦巻いていて、その渦の周辺には常に波が立っていたので、舟でそこを通る時人々はたいへん恐ろしがり、『渡困(わたしこわし)』と言った」といいます。その困(こわ)が強になり、身も心も震えあがる状態だったところから「強首」の地名が生まれました。
また、当時この村で栽培していた稲が大量に育ちました。この稲は、今でも農家に恐れられている「穂首いもち病」という病気に強く、遠くの村々から種子の注文があったそうです。穂首いもち病に強い稲の産地である事から、地名が「強首」になったともいわれております。
さらに、ある古老の昔話には、「この村(強巻村)に首の力がとても強い人が住んでいた。隣の寺館村には尻の力がたいへん強い人がいた。そこで二人は下河原という場所で力比べをする事となり、一人は首に縄を巻きつけて引っ張り、一人は尻の間に縄を挟んで綱引きをした。その結果、首で引いた方が勝ったので、この村を『強首村』と呼ぶようになり、相手の村を『寺館尻引村』というようになった」という。
このような言い伝えがありますが、いずれ「強首」という地名は水害に悩まされたこの土地の人々の治水の思いから生まれた地名だと考えられます。
秋田藩主佐竹氏が慶長7年秋田に入部後、「強巻」の地名が「強首」へと改称され(亀田領秋田領境論目安書 寛文12年より)、現在に至っています。
今まで秋田で生きてきて、強首が歴史的に見てこれだけ重要な土地だった事に驚きを隠せなかったです。普段何気なく通っている場所にも歴史の重みとロマンが凝縮されている事を改めて理解できました。今後も地元の魅力を再発見するために様々な取材を続けていきます。
参考資料
樅峰苑公式サイト
樅峰苑内設置リーフレット
(一部引用)
情報
強首温泉 樅峰苑
〒019-2335 秋田県大仙市強首字強首268
TEL:0187-77-2116
FAX:0187-77-2117
公式サイトURL: https://syohoen.net/
アクセス
JR奥羽本線 峰吉川駅より車7~8分、秋田空港より車で約16分
R秋田新幹線 大曲駅より車で30分。
秋田自動車道「西仙北IC」より車で7分。
秋田自動車道「協和」より車で10分。
東京から高速道路を利用する場合。
東北自動車道〜秋田自動車道〜西仙北IC〜R341を秋田空港方面へ右折。県道113号線を進む。
※写真は全て2024年7月17日筆者撮影
3 件のコメント
いつも楽しみに拝見しております。あまりにもリアリティな文章についつい行きたくなりますり次の秋田の魅力がどこか、またコメントしたくなりますので今後とも宜しくお願いします!
斉藤さん、はじめまして、ローカリティ!編集部です♡
ローカリティ!には秋田のみならず、全国・世界中の魅力がパツパツに詰まっておりますので、ヘビーリーダーになってくださいね。もちろん亀田さんの次の魅力発信もお楽しみに~!またコメントお待ちしております🙌🙌🙌
熱い応援ありがとうございます😊
今後も面白い記事を書いていく予定ですので、これかも応援よろしくお願いします🤲