3.11とそれから―被災者だった私が伝えたい災害を生き抜くための「3つの教訓」とは(後編)【福島県いわき市】

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産休中に東日本大震災に見舞われ、生後間もない息子と共に過酷な避難生活を強いられた櫛田(くしだ)さやかさん。インフラが寸断され、情報が交錯する中で、どのようにして困難な状況を乗り越えたのでしょうか。現在、いわき語り部の会の一員として活躍する櫛田さんが、極限の中で学んだ貴重な教訓と、未来への希望を込めたメッセージを前編・後編でお届けします。
(前編記事https://thelocality.net/3lessons-sinsai1/

届かなかった福島第一原子力発電所事故の知らせ

震災の翌日、なんとかインターネットが使えるようになりました。私は息子の育児を続けながら、仕事へ復帰することを決めました。いわき市内でも、私の住む地域は津波の被害を免れ、停電もなかったため、在宅で仕事への復帰が可能でした。私は普段からインターネットサイト運営の担当でしたので、ひとまずラジオ放送の内容をすべて文字に起こし、インターネット上に公開する作業を始めました。

そんな中、私たちいわき市民も原発事故が発生していることを知ることになります。事故は、震災翌日の12日にはすでに起きていたのですが、原発30キロ圏がわずかにかかるいわき市には情報がすぐには届かなかったのです。私がはっきりと「原発が危ない」という危機感を持ったのは、2回目の爆発があった14日でした。いわき市民に国からの避難指示は出ていませんでしたが、この頃から多くの市民が自主避難を始めました。特に小さな子どもを持つ家庭は、続々と避難していました。私も悩みました。

 ラジオ局の一員として情報発信の役割を果たす私にとって、「この地を離れる」という決断は簡単ではありませんでした。悩んだ末、自宅で生活と仕事を続けることにしました。あのときの判断が正しかったのか、今でも確信が持てません。息子のことを考えれば、それが最善だったのかどうか……。この葛藤は、今でも私の心に小さな傷として残り続けています。

当時の様子を語る櫛田さん

放射性物質は風で運ばれ、雨とともに地上に降りて来ます。事故が起きた当時は、南寄りの春風が吹いていたため、放射線量の高いエリアは30キロ圏を越えて北へと広がりました。でも、もし北風だったなら、私の住む地域も今とは状況が違っていたと思います。まるで運任せのような状況でした。いざ事故が起これば、地図の上の30キロの円など関係ない。この教訓は生かされるべきだと強く感じています。

震災から1週間後、公民館で安定ヨウ素剤が配布され始めました。本来、原発事故直後に必要なものでしたので、受け取っても飲むことはありませんでした。このとき、ようやく行政が動き出したんだなと感じたことを覚えています。

コミュニティFMと情報発信

私の勤めるラジオ局では臨時災害放送局も立ち上がり、通常より強い電波で放送を続けていました。スタッフはスタジオ内に荷造り用のプチプチを敷いて寝泊まりしながら、昼夜を分かたず必死に情報を届けていました。在宅の私も足並みをそろえながら、震災2日後からの43日間は休まずインターネットポータルサイトを通じて、被害情報や生活情報を発信し続けました。

ラジオは災害時に最も強いメディアだと信じていましたが、その時に聞いていなければ情報は消えてしまいます。だからこそ、私はインターネットで情報を保存し、検索できる形にすることを考えました。さらに、双方向の質問受付や被災地の写真掲載など、ラジオ放送を補う形で情報発信を続けました。スリングに入れた息子を揺らしながら、たった一人での作業でしたが、それでもできることがあると思い、続けました。

経験を語ることが次の避難行動へ

震災から14年となります。近年は日本各地で自然災害が多発し、東日本大震災の記憶が霞んでしまいそうです。何を伝えるべきか、日々悩んでいますが、今の私は「自分の身を守ることは、助け合いの第一歩」だと考えています。その理由は、主に3つです。

  1. 自分を守ることが、他人を守ることにつながる
    逃げ遅れてしまった人を助ける行為は、大変危険なものです。あなたが無事であれば、誰かを危険に晒すことはありません。自分もその誰かも守れます。
  2. 限られた資源を必要な人に譲れる
    災害時の救助や医療は限られています。本当に必要とする人へ支援の手を譲ることができます。
  3. 助ける側になることができる
    給水所で重い水を運ぶのを手伝うなど、小さな助け合いは厳しい被災生活を乗り越える力になります。
自分の予定や子供の様子を記載していた当時のノートを実際に手に取って語る櫛田さん

震災を経験してもうひとつ感じているのは、「どんなに大きな災害があっても、生活は続いていく」ということです。人生は終わりませんし、私たちは生き抜かなければなりません。そのためには、体だけでなく、心の健康も大切です。息子との在宅避難生活は大変でしたが、同時にたくさんの笑顔をもらっていました。たとえ被災していても、笑顔になれる瞬間はたくさんあります。防災の一環として、普段からお気に入りのおやつを常備するのも良い方法です。お腹が満たされるだけでなく、心の元気にもつながります。

最後に、私が語り部として伝えたいことは、「経験を語ることが次の避難行動につながる」ということです。ぜひ、大切な人といざというときの防災について、ご自身の言葉で語り合ってみてください。それが、次の災害に備える大きな一歩になるはずです。

取材協力:いわき震災伝承みらい館 https://memorial-iwaki.com/

災害を実際に体験したいわき語り部の会の語り部から記憶や教訓、被災地の現状や復興状況などを直接聞くことが出来る。開催日は毎週土日祝日の午前・午後。

昆愛

昆愛

埼玉県川越市出身。前住地は山形県鶴岡市。会社員のかたわら、地域資源の掘り起こしとその魅力発信活動に取り組む。2023年、「誰もいなくなった町。でも、ここはふるさと~原子力発電所と共存するコミュニティで“記憶”と“記録”について考える【福島県双葉郡富岡町】」で本サイトのベスト・ジャーナリズム賞を2年連続受賞、また2024年、天文活動の報告・交流等を目的としたシンポジウムでの発表「天文文化史で地元の魅力発信?九曜紋が導く新たな誘客構想とは【福島県南相馬市】」で渡部潤一奨励賞を2年連続受賞。

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