
2025年は太平洋戦争終結から80年の節目の年。筆者はまだ雪の残る2026年2月末、ポーランド出身の夫の希望で新潟県長岡市内にある山本五十六(いそろく)ゆかりの場所を訪れた。彼の言葉から見えてきたのは、日本の近代史を「遠い外国の過去」とは感じていない外国人のまなざしだった。

目次
雪の長岡で訪ねた山本五十六の記念館
JR長岡駅から歩いて10分ほど。私はポーランド出身の夫の希望で街の一角にある山本五十六記念館に足を運んだ。訪れたのは2月。冷たい空気のなか、館内に入ると外とは少し違う、凛とした静けさに包まれていた。
しかし、受付に立った時、あることに気づいた。館内の説明は基本的に日本語で、外国語の案内板は見当たらない。日本の近代史に強い関心を持つ彼に、より理解してもらうためにはどうしたらよいかと少し頭を抱えた。すると彼に気づいた受付のスタッフの方が、手作りの英語ガイドブックを差し出してくれた。展示物をイラスト付きで紹介した小冊子で、館内を巡るために作ったものらしい。貴重な資料が多い場所だからこそ、正しい情報が英語で伝えられる資料があることは、とてもありがたかった。
展示室に入ると、来館者はまだ数人ほど。時間が経つにつれて人が増え、年配の方から若い人まで、幅広い年代が静かに展示を見つめていた。
山本ゆかりの資料が並ぶケースの前で、彼は普段よりずっと口数が少ない。日本語の説明文と英語のガイドブックを見比べながら、気になる展示の前では少し身を乗り出して足を止める。「これはすごくありがたいね」そう言って小さく笑い、ガイドブックのページを何度もめくっていた。
戦争を望まなかった真珠湾の指揮官
この日、彼が初めて知ったことはいくつもあった。山本五十六は日露戦争の際、装甲巡洋艦で砲弾が爆発した事故により負傷し、左手の指を二本失っていたこと。また1919年からハーバード大学に留学、そして、1925年には*駐米日本大使館付武官として再びアメリカに滞在していたことも。ボストンやワシントンで英語を学び、自動車産業や石油資源を視察した経験から、山本はアメリカの国力を実感し、日米開戦に反対し続けた人物でもあった。真珠湾攻撃を指揮した軍人として知られる人物が、同時に総力戦の現実を誰よりも理解していた。そこにある歴史のねじれに、私は時代の中で人が背負わされる運命の複雑さを感じた。
彼が特に長く立ち止まったのは、1984年の調査で発見された山本五十六搭乗機の左翼の前だった。太平洋戦争中、山本はソロモン諸島上空で搭乗機を撃墜され戦死。その残骸の一部がこの展示だという。
「これは実物なんだ」彼はそう言ったきり、しばらく黙って見つめていた。
長岡の町に残る山本の足跡
スタッフの方の話によると、この左翼を日本へ移送するには現地の協力も欠かせず、実現までには数年がかりの努力が必要だったという。しかも残骸のすべてが回収されたわけではなく、今も現地に残る部分があるそうだ。展示品とは、ただ置かれている物ではない。そこに至るまでの時間や人の手まで背負っている。そう思うと、目の前の金属片の重みが少し変わって見えた。


記念館を出たあと、私たちは歩いて数分の場所にある山本五十六の生家跡にも立ち寄った。現在は石碑が建つだけの静かな場所だが、ここが1884年、山本が生まれた場所である。雪の残る庭先に立つと、展示室で見た資料の人物が、急に長岡の町と結びついて見えてきた。彼も石碑の前でしばらく足を止め、静かに周囲を見回していた。
そのあと、彼はぽつりとこう言った。
「ポーランドでは、歴史好きな人たちのあいだで彼の知名度は高くて、尊敬されているんだ。自分も日本人の忍耐強さや自分を犠牲にしてまで尽くす姿には、ずっと胸を打たれてきた。だから、その山本が生まれた街に自分が来るなんて、不思議な気持ちだよ」

ポーランドは18世紀末の国土分割によって国家を失い、日本もまた戦争と敗戦を経験した。歩んだ道は違っても、国の危機や喪失の記憶を抱えている点では、どこか通じるものがあるのかもしれない。だからこそ、日本の近代史は彼にとって「遠い国の昔話」ではなく、自分たちの歴史と地続きのものとして映るのだろう。
この日、私にとって大きかったのは、新しい知識を得たことだけではない。外国人である彼の沈黙や言葉を通して、日本の近代史が急に手触りを持ちはじめたことだった。
記念館と生家跡をあとにすると、2月の空気はまだ冷たかった。けれど、展示室で交わした少ない言葉と、手作りガイドブックをめくる音は、しばらく胸の中で静かに響き続けていた。
*駐米日本大使館付武官・・・アメリカにある日本大使館に配置された軍事担当の外交官





