
春の陽気に包まれた福島県郡山市郊外。市街地から少し離れた場所にある「大久保神社」で、今年も桜が咲いた。
JR郡山駅から南へ車で15分ほどの距離にありながら、その場には静かな時間が流れ、安積疏水(あさかそすい)の原点と、近代日本の礎を築こうとした一人の政治家の強い意志が今も息づいているように感じられた。

年4月上旬、私はその地を訪れた。畑と住宅が混在する穏やかな風景の中、満開の桜に囲まれてたたずむのは、ひとつの顕彰碑だけだ。この神社は、明治維新の立役者の一人である大久保利通の遺徳をたたえ、地元の人々によって建立された。安積疏水の開削に尽力した人物のひとりとして、その名がこの地に刻まれている。

碑に目を向けると、その歴史的価値はさらに際立つ。文字は松方正義が篆(てん)書で記し、撰(せん)文は尚古(しょうこ)派農政官僚であり歴史学者でもある織田完之(かんし)によるものだ。国家の中枢を担った人物たちの手によって刻まれた碑文は漢詩と共にこの事業の重みを今に伝えている。

明治初期、郡山周辺は広大な原野が広がる不毛の地だった。西には国内有数の広さを誇る猪苗代湖がありながら、水を引く術がなく、農地としての利用は限られていた。こうした状況を打開するために進められたのが、猪苗代湖から水を引く国家的事業「安積疏水」の開削である。
この事業を主導した人物のひとりが大久保だった。彼は欧米視察を通じて近代国家のあり方を学び、農業こそが国力の基盤であると確信する。そして、戊辰戦争後に行き場を失った士族の救済と新たな産業の創出を重ね合わせ、この地の開拓に大きな期待を寄せた。
特筆すべきは、その視野の広さだ。郡山はかつての敵対勢力である会津に隣接する地域であり、大久保自身は薩摩出身である。それでも彼は地域間の対立にとらわれず、「地方の隆盛こそが国の豊かさにつながる」と考え、開発を推し進めた。
しかし、大久保はその完成を見ることなくこの世を去る。最後まで安積開拓の未来を語り続けていたとされ、その志は後に引き継がれ、安積疏水は1882(明治15)年に完成した。
幹線水路約52キロ、分水路約78キロに及ぶこの水路は、約3,000ヘクタールの土地を潤し、郡山を東北有数の米どころへと変貌させた。人口約5,000人の宿場町だったこの地は、現在では約31万人を抱える都市へと発展している。

桜の花びらが風に舞い、石碑の前に静かに降り積もる。その光景を前に、私はふと足を止めた。華やかな観光地でもなく、整備された公園でもない。ただ一基の石碑が立つこの場所に、人々が忘れまいとしてきた記憶がある。
安積疏水は単なる土木事業ではない。地域の未来を信じた意志と、それを受け継いだ人々の営みが織り重なった歴史そのものだ。
春になるたびに咲くこの桜は、その記憶を静かに語り継いでいる。





