
三重県四日市市では1960~70年代、「四日市ぜんそく」と呼ばれる公害が発生しました。「四日市公害と環境未来館」は、四日市公害の歴史と教訓を次の世代に伝え、産業の発展と環境保全を両立したまちづくり、苦い経験から得た知識や環境技術を広く発信することを目的に開館した博物館です。
今回、館内1階にある研修・実習室を取材しました。この部屋は四日市ぜんそくの被害が大きかった市立塩浜小学校の1965(昭和40)年前後の教室を再現、公開されています。年配の方には一見、郷愁を誘う教室ですが、「あれ?」と思うものがいくつも存在します。公害に苦しんだ子どもたちがどのような学校生活を送っていたか、ぜひ想像してみてください。
目次
工場やタンクや貨物列車などが隙間なく並ぶ窓外
教室に入り、いちばんに目につくのは窓から見える景色です。教室から見えた当時の景色が再現されています。窓いっぱい、目の前に存在するのは、工場や煙突、タンク、工場への引き込み線、貨物列車など。教室から見える景色としては、違和感しかないものがたくさん並んでいます。
加えて、驚くのはその近さです。目前にドンッと存在しており、学校に工場地帯が隣接していることがよくわかります。「こんなに近いのか…」というのが率直な感想です。工場が見える学校は全国にたくさんあると思いますが、この近さは異様。――その圧迫感はすさまじいものがあります。


窓際の席に座ると、こんなふうに外が見えます。同じ四日市市内ながらもっと田舎の小学校に通った筆者は教室の窓とは清々しいものだと思っていましたので、「こんなに見晴らしのきかない学校の窓ってあるんだ」と本当に驚きました。
四日市市立塩浜小学校は、1875(明治8)年に開校した市内でも古い小学校の一つです。1945(昭和20)年の四日市空襲では全焼、1947(昭和22)年頃に新校舎が建設されましたが、1959(昭和34)年の伊勢湾台風でも講堂や教室が損壊するなど大きな被害を受けました。
一方で、1956(昭和31)年には児童数が増えたため、塩浜第二小学校(現・三浜小学校)が設立されています。長い歴史の中でたくさんの子どもたちが学び、巣立っていった小学校です。
そもそも、工場群の中に塩浜小学校が立地されたわけではありません。むしろ周囲に次々とコンビナートが建設され、気がつけば学校が工場に囲まれてしまった。その結果、工場や煙突しか見えず、見晴らしの良くない窓、教室ができあがってしまったことになります。
健康を守るために—―学校生活に入りこんできた様々なものたち
教室内には、空気清浄機が設置されました。「先生以外はさわらないこと」と注意書きがあります。

当時、空気清浄機はぜんそく予防に有効と考えられたため、塩浜小学校をはじめ市内の学校の教室や保健室、幼稚園などに合わせて200台弱が設置されました。
なお、初期の空気清浄機にはエアコン機能がついていませんでした。これを稼働させると教室の窓を開けることはできません。当然のことながら、清浄な空気と外の空気を混ぜるわけにはいかないからです。また、工場が操業する音や貨物列車の走る音などのひどい騒音も、窓を開けられない原因となりました。エアコン機能がついていない時期、夏場の暑さは耐えられないものだったのではないでしょうか。

健康づくりの一環として、子どもたちはうがいや乾布摩擦にも取り組みました。教室内の日課表や「ただしいうがいのしかた」の掲示を見ると、登校後に乾布摩擦を、うがいは日に6回、そのうち2回は2%の重曹水で行うことになっています。
※うがいは日課表では1日4回となっていますが、掲示「ただしいうがいのしかた」にある1日6回が正確であると博物館よりご教示いただきました。


教室の後方には、塩浜小学校で使用されていたうがい場が再現されています。当時は、大勢の子どもが1日に6回のうがいをできるよう、蛇口のたくさんついた手洗い場が設けられていました。
このほか、登下校にはマスクをつけることになり、黄色いマスク(通称「公害マスク」)が配布されました。このマスクも再現したものが館内に展示されています。しかし、「病気がうつるから、マスクをつけた子どもには近寄ってはいけない」など心ないデマが広がり、子どもたちを苦しめたと言います。


「ぜんそくの予防になりそうなことなら、とにかくなんでもやってみないといけない」という気持ちは痛いほどわかります。空気清浄機のように現実に予防につながるものもありましたが、2026年に生きる私たちから見ると、「こんなことまで…」と思うような手立ても含まれています。
本当の原因である大気汚染を解決しなければ、ぜんそくは予防できません。公害中心地の学校に通う子どもたちがいかに翻弄(ほんろう)されたか、様々なモノたちから学ぶことができます。
校歌の変更――「希望の光」がもたらしたもの
教室には、塩浜小学校の校歌が掲示されています。

港のほとり ならびたつ
科学の誇る 工場は
平和を護る 日本の
希望の希望の 光りです
塩浜っ子 塩浜っ子 僕たちは
あすの日本 築きます
この校歌は、戦後コンビナートが建設され始めたころにできたとされています。しかし、児童にもぜんそくの患者が増え始め、修正を求める声が上がり、1972(昭和47)年、以下のような歌詞に変更されました。傍線部が変更になった部分です。
南の国から 北の国
港を出て行く あの船は
世界をつなぐ 日本の
希望の 希望のしるしです
塩浜っ子 塩浜っ子 僕たちは
あすの日本 築きます
変更された部分を比べると、工場をどんどん建設し近代化を図った結果、公害が起こり、子どもたちや住民の生活が脅かされ、健康や命さえもが奪われるに至ったことを読み解くことができます。
なお、2014(平成26)年、塩浜小学校は児童数減少のため三浜小学校と統合されました。現在の校歌は、その際につくられた新しい校歌となっています。
明治以降の近代化、工業化を見直す必要
現在、四日市市では、公害の経験を生かし、公害防止の技術や行政の仕組みなどを海外に伝える仕事を担っています。最近では、アジア諸国からの要望が増えているそうです。一方で、四日市市が把握していている四日市ぜんそくの認定患者は現在でも約260名ほどの方がおり、引き続き患者さんのサポートを進めています。公害の歴史は、決して忘れてはいけない出来事なのです。
塩浜小学校の教室を再現した研修・実習室を見て、「産業が発展することってどういうことなんだろうか?」との思いを持ちました。
江戸時代には東海道の宿場町だった四日市は、明治維新を機に港湾を中心に工業都市として、すさまじい勢いで進化を遂げてきました。そういう意味で、日本の近代化の典型と言えるでしょう。
産業や街の発展は大切です。しかし、その過程で人間が大切にされなかったり、命や生きる権利が損なわれたりする事態が起こらないよう、細心の注意を払わなければなりません。人間の暮らしを豊かにするためにこそ産業の発展はあるのだということを忘れてはいけない。そんな思いに駆られました。
※今回の取材では、四日市公害と環境未来館の米田史郎さま(副館長)、市川和彦さまに解説をお願いし、写真2点をご提供いただきました。心より御礼申し上げます。それ以外の写真はすべて2026年5月1日、取材時に筆者が撮影しました。
情報
四日市公害と環境未来館
住所:〒510-0075 四日市市安島1丁目3番16号
TEL:059-354-8065(代) FAX 059-329-5792
E-mail:kougai-kankyoumiraikan@city.yokkaichi.mie.jp
●開館時間:9:30~17:00 (ただし、展覧会への入場は16:30まで)
●休館日:月曜日 (祝日の場合はその翌日)
※臨時休館、整備休館、年末年始休館は公式サイトで随時お知らせ。
●入場料:無料 (特別展・企画展は展覧会ごとに定めます。)
●公式サイト:https://www.city.yokkaichi.mie.jp/yokkaichikougai-kankyoumiraikan/





