能勢電鉄、実は丹波篠山を目指していたらしい――三ツ矢サイダーも巻き込んだ“鉄道ロマン大作戦”【兵庫県川西市・丹波篠山市・猪名川町・京都府亀岡市】

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阪急電鉄宝塚本線との乗換駅・川西能勢口駅で発車を待つ能勢電鉄・日生中央行き7200系電車
阪急・能勢電鉄 川西能勢口駅

兵庫県川西市に本社を置く能勢電鉄。今でこそ大阪梅田駅までの直通特急も走る通勤路線「のせでん」として親しまれていますが、かつては丹波篠山方面まで線路を延ばそうという、なかなか攻めた夢を見ていました。しかもその歴史をたどると、大正時代の鉄道熱、資金難、経営再建、そして当時の帝国鉱泉・三ツ矢サイダーの出荷輸送まで登場します。つまり、鉄道史なのに途中から炭酸が効いてくるお話です。

引退を迎える能勢電鉄最古参の1700系

本当にあった「篠山まで行きたい」計画

能勢電鉄の前身である能勢電気軌道は、明治41年の設立以降、霊山として知られる妙見山への参拝客や沿線の物資を運ぶ鉄道として出発しました。ところが大正時代から昭和初期にかけて、「せっかくなら、もっと北へ行ってみない?」という勢いで、現在の妙見口駅付近から亀岡や丹波篠山方面へ向かう壮大な構想が検討されていました。今風に言えば、路線図に夢を盛りすぎた状態です。

現在の起点・川西能勢口駅は兵庫県川西市、終点の妙見口駅は大阪府豊能町で、兵庫県と大阪府の2府県をまたいでいます。これから語る延伸構想は、そこからさらに北の京都府まで線路を伸ばそうという話です。

この構想は「摂丹鉄道」と呼ばれ、旧・摂津国と旧・丹波国を鉄路で結び、大阪方面から丹波地域へ抜ける新たな交通軸をつくろうとするものでした。名前からして、すでに地図を広げて腕まくりしていた感じがします。

湯の花温泉を拠点に、亀岡へ、篠山へ、夢は分岐する

大正期の計画では、現在の能勢電鉄妙見線を吉川(現在の妙見口駅)からさらに先へ延ばし、能勢地方を北上するルートが想定されていました。京都府亀岡市の湯の花温泉付近を一大拠点とし、そこから亀岡駅方面と兵庫県の篠山方面へ分岐する構想でした。温泉を拠点に鉄道を分けるという、なんとも湯気の立つ計画です。

篠山方面へは、現在の国道372号、いわゆる有名な民謡にちなんだ「デカンショ街道」に近いルートで結ぶ案が考えられていました。もしかしたら、クルマより先に電車が「デカンショ、デカンショ」と走っていたかもしれません。

実現していれば、大阪北部から能勢、亀岡、篠山をつなぐ広域鉄道網となり、参拝、観光、物資輸送の枠を超えた山陽側の大阪と山陰側の京都府北部を結ぶ「陰陽連絡線」として活躍していた可能性があります。乗客も荷物も夢も、まとめて北へ運ぶつもりだったわけです。

現実は、線路より先にお金が息切れ

能勢電気軌道は開業直後から建設費の膨張に苦しみ、1914年(大正3年)には破産に追い込まれました。北へ進む前に、会社の財布が先に遭難した形です。

第1次世界大戦期には線路や車両、土木資材の価格が高騰し、延伸に必要な資金調達はいっそう困難に。夢は大きく、見積書の数字はもっと大きかったのです。

その後、阪神急行電鉄(のちの京阪神急行電鉄を経て現在の阪急電鉄)の資本参加を得て、能勢電気軌道は資金面での支えを得ることになります。壮大な篠山延伸ではなく、まずは目の前の吉川(現・妙見口駅)までの延伸を手堅く実現させる道を選びました。

しかし、すでに阪鶴鉄道、現在のJR福知山線が広域輸送ルートとして存在しており新線建設の必要性を弱めました。ライバルがすでに線路を敷いていて、「そこ、もう通ってまっせ!」と言われたようなものです。

こうした事情が重なり、1918(大正7)年に規模を縮小して妙見鉄道へ改称したものの、翌1919(大正8)年には軽便鉄道の免許を自ら返納しました。篠山延伸は、法律上も完全に立ち消えとなり、夢の終着駅は、残念ながら未成線(=計画倒れで実現しなかった路線)となりました。

しかも開業前から、まさかの資金持ち逃げ事件

延伸計画の前提となる最初の開業区間で、すでに会社を揺るがす不祥事が起きていました。1910(明治43)年12月、工事着工届を提出した時期に、発起人の一人が詐欺横領事件で検挙されたとされています。鉄道会社らしく、走り出す前からお金だけが先に発車してしまったような話です。

この事件により株主の信頼は大きく損なわれ、追加の払い込みも滞りました。建設資金は不足し、経営陣の交代も相次ぎます。開業前から会社は深刻な経営不安を抱えることになり、その後の篠山・亀岡方面への延伸構想にも深刻な影響を与えました。壮大な計画に必要だったのは、レールだけでなく、まず安心して預けられる財布だったのです。

大手私鉄界の助っ人が登場

能勢電気軌道の経営再建に深く関わった人物が、1912年に専務取締役となった太田雪松です。太田は負債整理や放置されていた工事の再開に取り組み、1913(大正2)年の開業にこぎ着けました。しかし、その後の独断専行の経営が会社を疲弊させ、1914(大正3)年には破産を招く結果となります。破産後、太田は能勢電気軌道を離れ、亀岡・篠山方面への夢を引き継いだ「摂丹鉄道」の専務取締役に転じました。

破産後、能勢電気軌道は協諧契約(現在の強制和議に相当)により、管財人のもとで運営されることになりました。

新体制の能勢電気軌道は、一の鳥居から吉川(現在の妙見口駅)までの延伸を見据え、先んじて乗合自動車(バス)事業に乗り出しました。ところがこの事業も奈良県への展開を含めて経営不振に陥り、1921(大正10)年には撤退を余儀なくされます。吉川までの延伸を実現するには、まとまった資金がどうしても必要でした。

そこで会社は増資に踏み切り、1922(大正11)年10月、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の資本参加を仰ぐことになります。阪急宝塚本線と接続する能勢電鉄を支えることは、阪急側にとっても沿線価値を守るメリットがあったと考えられます。この資本参加を得て、翌1923(大正12)年、能勢電気軌道はついに悲願だった吉川(妙見口)までの延伸を果たします。夢は縮んでも、会社はしぶとく走り続けたのです。

 ここで突然、三ツ矢サイダーがシュワッと登場

能勢電鉄の歴史を語るうえで欠かせないのが、三ツ矢サイダーとの関係です。丹波篠山の籠坊(かごぼう)温泉にも予備的な取水場がありましたが、三ツ矢サイダーの源流となったのは「平野水(ひらのすい)」と呼ばれた現在の能勢電鉄平野駅付近に湧く天然炭酸水でした。鉄道史の話をしていたはずが、ここで急に炭酸飲料の泡が立ち始めます。

三ツ矢サイダー発祥の地・平野鉱泉工場跡
川西市役所内は当時の三ツ矢サイダー工場と能勢電鉄を再現したジオラマがあります
三ツ矢サイダー採水場跡の横を走り抜ける能勢電鉄

平野駅周辺には三ツ矢サイダーの工場があり、能勢電鉄は工場から製品を運び出す貨物輸送を担っていました。人だけでなく、サイダーもきちんと乗せていたのです。

平野駅前を流れる塩川にかかる橋はその名もみつやばし

平野駅には貨物側線が設けられ、瓶詰めされたサイダーは貨車に積み込まれて阪急の川西能勢口駅方面へ運ばれました。瓶たちはきっと、ガタゴト揺られながら「割れませんように」と願っていたことでしょう。

能勢電鉄の初期経営にとって、この貨物輸送収入は大きな支えになったとされています。会社の経営に、文字通り炭酸のような刺激を与えていたわけです。

能勢電鉄平野駅構内
鉱泉水が流れていた淀川水系・塩川の流れ

川西国鉄前線、サイダー全国デビューへの道

サイダー輸送では、能勢電鉄の本線である妙見線だけでなく、川西能勢口駅から国鉄池田駅、現在のJR川西池田駅付近へ向かう「川西国鉄前線」も重要な役割を果たしました。この路線は、サイダーを国鉄貨車へ積み替えるために整備された貨物連絡線でした。つまり、三ツ矢サイダーにとっては全国デビュー前の大事な積み替え通路だったのです。

平野工場で製造されたサイダーは、能勢電鉄で川西能勢口駅まで運ばれ、さらに国鉄側へ積み替えられて京阪神や全国各地へ出荷されました。平野で生まれた泡が、鉄道に乗って世間へ旅立って行きました。

鉄道による大量輸送は、瓶製品の破損リスクを減らし、出荷効率を大きく高めました。大量の瓶を運ぶには、やはり人力より鉄道。根性で担ぐには、サイダーは少々重すぎたのです。

延伸は幻、でも沿線史はしっかり残った

篠山延伸構想は、能勢・亀岡・丹波を結ぶ広域鉄道網を目指した、かなり大きな夢でした。資金難、不祥事、資材高騰、経営方針の転換などが重なり、計画はあえなく見送りとなりました。

篠山延伸は実現しませんでしたが、能勢電鉄の北へ向かう路線には、丹波方面へ鉄路を延ばそうとした時代の夢が重なっています。一方で、三ツ矢サイダーの輸送は、能勢電鉄が地域産業とともに発展してきたことを示す象徴的な歴史です。初期の能勢電鉄を支えた重要な貨物事業であり、沿線史に残る名脇役でした。

線路の上を走ったのは電車だけではなく、地域の商売と、ちょっとした泡立つ希望でもありました。

能勢電鉄本社社屋

現在、能勢電鉄の本社は平野駅前の、かつて三ツ矢サイダーの工場があった場所に置かれています。篠山まで線路は伸びませんでしたが、能勢電鉄と三ツ矢サイダーの縁は、今も平野の地で静かに泡を立てているのかもしれません。

※写真はすべて筆者による撮影

参考文献:
・兵庫県川西市役所    https://www.city.kawanishi.hyogo.jp/shiseijoho/shokai/kankouannai/1003058/kankou_hira.html
・能勢電鉄100年史
・Asahi 100

椛澤弘之

椛澤弘之

"東京都大田区で生まれ育ち、中学・高校時代は神奈川県茅ケ崎市で過ごす。
高卒後、旧ソビエト連邦を経てギリシャ共和国に渡り、サウンドエンジニアとしてミコノス島の劇場で働く。
欧州言語に興味を持ち、スイスの商業高校と州立大学で学ぶ。
帰国後、輸入雑貨買い付けの傍ら、レシピ復刻料理研究家、翻訳家(英・仏・独・伊・西)、写真家、ジャーナリストとして活動する。
現在は地方から世の中を見渡すため、兵庫県丹波篠山市在住。"

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