
「ローカリティ!」の中野宏一編集長と丸山夏名美副編集長が本を出すという。
そもそも、私自身が新聞社出身でもなければ、雑誌出身でもない。福島県に住み、ブログだけを書いてきた人間なので、ジャーナリズムについてよくわかっていない。
そのため、本書をじっくり読んでみることにした。ここでは、読んで特に考えさせられたこと、そして、二人に取材をして理解したことと、自分なりの見解を書いてみたい。
目次
ジャーナリズムとは何なのか

これまでジャーナリズムとは何なのかについて、記事を書きながらも自分の中で言語化できていなかった。ジャーナリズムとは単純に政権を批判すること?それとも、朝まで議論すること?
そんな私にとって、本書に書かれていたジャーナリズムについての一節は印象的だった。
本書の一幕には、「(ジャーナリズムとは)記者が現場に行き、見聞き体験するなかで、『人が生きるとは何か』という問いへの回答を拾ってくること」とある。
この部分が、私にとっては一番記憶に残った。
ライターとして様々な人を取材してきた私だが、何を引きだせばよいのか時々わからなくなることがあった。その原因は、インタビューにおける軸がその時その時で変わっていたからである。
しかし、この言葉のように「人が生きるとは何か」を軸に据えれば、取材の軸がぶれにくくなるのではないかと思った。
「問い」が難しすぎないだろうか
とはいえ、取材対象者が常に「人が生きるとは何か」を考えているかと言うと、そうではないこともあるだろう。
私の取材対象者は、坂本龍馬に憧れる経営者から、田舎のおばあちゃんまで幅広い。よって「生きるとは何か」という質問は、常に有効かというと、なかなか難しいと感じている。
例えば、ある方にインタビューした際に、1つの質問を掘り下げて聞くと、「わからない」とか「難しい質問ですね」と言われてしまったことがあった。
そういう場合は雑談から入っていくことが多いが、そこから「生きるとは」という問いへの答えまでに到達できる人もいれば、そうでもない人もいると感じている。
難解な質問を「分解する」質問例
このような場合は、どんな質問をすれば良いのだろうか。本書では、次のような質問を例に挙げている。
「あなたは、なぜ今の活動をしているんですか」
「あなたは、どんな時に嬉しい、楽しいと感じますか」
「あなたが、仕事をしている時に大切にしている価値観や姿勢はなんですか」
「あなたは、この活動を通じてどんな未来を実現したいですか」
このような質問をすることで、その回答からその人の価値観があぶり出されるとある。
「人が生きるとは何か」という大きな問いを、こうした具体的な質問に分解していくのは有効かもしれない。
「取材されない自由」ってあるの?
ところで私は、ジャーナリズムとは何かを考えていく中で、「発信することはどこまで許されるのだろうか」という疑問も持っていた。
地元やそこで暮らす人たちの魅力を発信することは大切だ。一方で、本人が発信されることを望んでいない場合、その意思はどこまで尊重されるべきなのだろうか。
私は当初、これを「取材されない自由」という言葉で考えていた。しかし、編集長・副編集長に話を聞き「取材を断ること」と「報道されないこと」は別の問題なのだと気づいた。
取材を依頼された人は、それを断ることができる。しかし、本人が報道を望んでいないからといって、必ずしも報道そのものができなくなるわけではない。
では、本人の意向を超えて報道することが許されるのは、どのような場合なのだろうか。
編集長らによると、その判断軸の一つになるのが「公益性」だという。
ローカリティ!の報道倫理規程の第9条2項には、「記事を原文通りに公開することが公益に反すると判断される場合。なお公益とは、ローカリティ!が実現したい未来及び社会からの逆算で決定され、権力者により決定されるものではない。」とある。
つまり、発信するかどうかを判断する際には、「本人が発信を望んでいるか」だけではなく、その情報を社会に伝えることに公益性があるかどうかも問われる。
例えば、本人が発信を望んでいなくても、不正や不正義について社会に知らせる必要性が高ければ、報道する意味が生じることがある。
一方で、単に人々の好奇心を満たすだけの情報であれば、同じようには扱えないだろう。
この公益性という考え方は、人やその所有物について報じる場合にも関わってくる。
人やその所有物について報じる場合には、本人のプライバシーや権利への配慮も必要になるが、それだけで報道の可否が決まるわけではない。
公益の観点から伝える必要性が高い場合には、本人の意向とは別に報道の是非が検討されることになる。
ただ、ここでも新たな疑問が生まれる。何を「公益」と判断するのかを決めるのも、結局は報道する側ではないだろうか。
記者の権力性について
記事を書いていると、報道する側にはさまざまな「選ぶ力」があることに気づく。
何を公益と判断するのかだけでなく、どの人を取材するのか、どこの地域を取り上げるのかも、最終的には記者や編集部が選んでいる。
そう考えると、「記者のほうが、取材される側よりも力を持っているのではないか」という疑問が生まれた。これについても編集長らに聞いた。
回答は、「記者の権力性は存在する」とのことだった。

その上で、ローカリティ!では、ユーザーが投稿した記事をそのまま公開するUGC型の運用ではなく、すべての記事について編集部が校閲やコンプライアンスチェックを行っているという。
もちろん、記者の自覚も必要であるのは言うまでもない。私も記事を書く際に、自分の記事を客観視する必要があると感じている。
報道する側が考えさせられる本

本書は、働くことや組織、人材について多くの示唆を含む本であるが、私はむしろジャーナリズムのほうに関心を持った。
メディアやメディアに関わる人々は、発信する側として大きな力を持つ。それだけに、その責任も大きい。
誰を取り上げ、何を書き、何を書かないのか。そうした選択権を持っていること自体、取材される側との間に非対称な関係を生む。
そのことは、記事を書き続けていると忘れてしまいそうになる。
本書を読んで最も考えさせられたのは、ジャーナリズムの技法ではなく、その力を持つ側の自覚だった。
※photoAC以外の写真はすべて株式会社イーストタイムズ提供
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