沖縄県は2023年度、たくさんの「お宝=魅力」をもつ離島各所の事業者さんたちが、SNSなどの『デジタルツール』を利用してさらに魅力的な発信をしていけるように「沖縄県主催🌺価値を伝えて売りまくるためのデジバズ講座」という取り組みを行っています。この記事は、参加された事業者さんを対象に、「ローカリティ!」のレポーターがその輝く魅力を取材し執筆したものです。沖縄離島の魅力をご堪能ください。
たった120年前に歴史が始まった北大東島。その始まりに「たどれば顔までわかりそうなご先祖様が関わっている」。そんなロマンを今の時代に体感できる場所は少ないのではないでしょうか。
今回はわずか1世紀前の1903年に開拓が始まったことで知られる北大東島で、一般社団法人北大東島振興機構に勤める當間リエ子 (とうま・りえこ)さんにお話を伺いました。
目次
三代前のご先祖様は八丈島出身。沖縄最東端の島のプロローグ
沖縄の島「北大東島」と、東京の島「八丈島」は1,143km離れた場所にあります。県も違う、島の位置も離れているこの2つの場所には縁があります。1903年、八丈島の玉置商会により北大東島の開拓が始まりました。沖縄本島から約360km離れたこの島の歴史が動き出した瞬間です。
「八丈島の文化は、開拓とともに北大東島にも伝わり、それが今でも残っています。八丈太鼓は今では大東太鼓、八丈寿司も今では大東寿司と呼ばれるようになりました」
開拓が始まり100年ほど経て、ここ10〜20年前からは八丈の名前は消え、大東の名が前面に出てくるようになったそうです。
「私の母方のご先祖様は八丈島出身です。この島にはそんな人がたくさん暮らしています」
この島に住むどの家庭の先祖も元をたどれば、みんなよそから入ってきた人なので、受け入れる姿勢ができていると當間さんは話します。
そんな八丈島と沖縄の文化や風習が混ざり合う島に、新しい風を呼び込むのが、當間さんの北大東島振興機構でのお仕事です。
個人、団体向けの観光案内やナイトツアー、特産品開発や空港の雑務と、ありとあらゆることを担う北大東島振興機構。バイタリティあふれる彼女はどんどんと仕事を増やし、観光案内所内のパン屋さん、空港内の喫茶店の運営までも担っています。
人見知りだったバスガイドが伝える、ふるさとの風景
當間さんはかつて人と話すことが苦手で、人見知りを克服するために高校卒業後は、島外でバスガイドや理容師を経験しました。その経験を経て北大東島へ帰ってきた当初はずっと島に住むつもりはなかったといいます。
「島での幼少期は雨水をタンクに溜め、生活用水に使っていました。当時島にはホテルやレストランもありませんでした。それが30年ぶりに島に帰ってきた時には浦島太郎状態で、ホテルがあって道路がきれいになり、その変わりように驚きました」
帰ってきて改めて臨港採掘跡地や遺跡など島に残る歴史や文化に触れ、植物や生き物が好きだという思いから、これらを伝えたいという思いがあふれ、今の仕事にたどり着きました。
「私のおすすめポイントは島の地形やくぼんだ坂道です。臨港貯蔵庫に夕日が当たるとオレンジ色に染まり、晴れた日には海の色に染まる景色がとてもきれいです」
毎朝、日が昇る前に旦那様とドライブをして、島の景色や空、南大東島を眺めることがルーティーンになっているほど、當間さん自身も島を楽しんでいます。
沖縄本島からも遠く、観光に来られる人が限られている北大東島。オーバーツーリズムにはならない島だからこそ付加価値をつけた観光を目指しています。
120年後に残したい島の風景
「120年前に渡ってきた太鼓や寿司の文化が今も残っているように、これから120年後にも島の文化や歴史を残していきたいと思っています。
昔の手作り品の技術や、お祝いの時に各家庭で作られるお寿司が、保存の効くように甘い酢飯や魚の塩つけをして作られていたこと、おじぃやおばぁから聞いたことを伝え、残していきたいです」
昔を知る人がいなくなってきた今、記録として残していくことが大切だと當間さんはいいます。
「私が元気なうちにやれるだけ取り組んで、それを若い人に引き継いでいかないとという責任感があります。映像で記録ができるような便利な時代だからこそ、見て聞いて覚えて伝えていきたいです」
何もないけど、ロマンがある。島の人は恥ずかしがり屋ではあるけど人情があり、親しくなるとみんな仲良くできる北大東島です。120年前の歴史に思いを馳せて、ぶらり探索へ出かけてみてはいかがでしょうか?