2011年3月11日午後2時46分。
突然の激しい縦揺れで立っていられず、思わず床に這いつくばった。東日本大震災から13年が経過した今でも、あの日のことは鮮明に覚えている。
筆者は当時、仙台市に本社を置く新聞社で編集局写真部のデスク(部員から出された原稿や写真をチェックする立場)として働いていた。夜勤を控えて、JR仙台駅東口に近い飲食店で遅い昼食を摂ろうとしていた時だった。
3月11日、13年前と同じ時刻にあの日の自分を振り返り、どう行動したかを辿ってみた。
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永遠に続くかと思われた揺れが収まり建物の外に飛び出すと、JR仙台駅の東口は避難した旅行客や市民で埋まっていた。茫然と立ち尽くす人、繋がらない携帯電話に苛立つ人。はっと我に返り、常に持ち歩いているカメラをバッグから取り出してシャッターを切った。
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雪が舞ったあの日と異なり快晴となった本日2024年3月11日の仙台駅東口。再開発で街並みも変化した。
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筆者は入社間もない新人の頃に遭遇した宮城県沖地震(1978年)を皮切りに、宮城県北部連続地震(2003年)、岩手・宮城内陸地震(2008年)などいくつもの地震取材を経験して、災害現場でも冷静に行動する心構えはできていた。それでも一刻も早く会社に駆けつけなければと気がはやり、西口に向かおうとするが、地下道も駅ビル2階の連絡通路も漏水などですでに通行できない。東西連絡通路の周辺には駅構内の店舗から逃げ出した従業員らがうずくまっていた。
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現在、駅ビル2階の東西連絡通路も拡幅され、かつて「駅裏」と呼ばれていた東口の賑わいは西口に引けをとらない。
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ここに止まっている訳にはいかない。仙台駅の北側を大きく迂回しようと引き返した。周りの建物に大きな損傷は見当たらないが、歩道の敷石は大きく波打っている。近くの病院の入院患者だろうか、医療スタッフに支えられて避難する姿も見られた。
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息苦しさを覚えながら西口まで来ると、仙台駅から西に伸びる青葉通は車の通行も途絶え、通行人が中央分離帯に集まっている。ペデストリアンデッキ(歩行者用デッキ)に上ると、駅前のバスプールとタクシープールは少しでも安全な場所を求める人たちで埋め尽くされていた。
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地震発生から40分以上掛かって会社に辿り着いたが、安全確認が取れていないために立ち入り禁止だった。しかたなく駆けつけてきた部員たちに屋外から取材の手配をする。
ようやく部室に入ることができ、マグニチュード9.0という規模の割には被害が少ないと安堵した矢先、非常用電源で映っていたテレビに目をやって言葉を失った。陸上自衛隊のヘリコプターに搭載されたカメラが巨大津波の襲来を捉えていた。沿岸部の住民と取材に向かった部員の無事をただ祈るしかなかった。
追い打ちをかけるように「福島第一原子力発電所で全電源喪失」の一報が入る。やがてメルトダウン(炉心溶融)から水蒸気爆発に至る最悪の原発事故の始まりだった。
相次ぐ余震の中、それから1カ月近くも会社に泊まり込む生活が続く。自身がカメラマンとして現場に立てない「もどかしさ」を抱えながら、被災地から次々と送られてくる悲惨な写真に向き合うしかなかった。
気付けば、あの日から13年が過ぎてしまった。仙台市内でも沿岸部を除いて復興が進み、被害の痕跡は見当たらない。日々の生活に追われて震災の記憶が風化し、ともすれば防災意識が希薄になってしまう。物理学者の寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやって来る」という警句を残したが、熊本地震や能登半島地震だけでなく、さまざまな自然災害が後を絶たない。あらためて「災害列島」で暮らしているという自覚が求められている。