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現代に響くジョンマン・スピリットを読み、一気に恋におちた。
みなさんは日本史が得意だろうか?筆者はからっきし苦手である。そんな筆者はある人物と出会い、すっかりファンになってしまった。置かれた環境を最大限に活かし、勉学に励み、後世のために尽力する。その人物こそジョン万次郎である。高知県の南西にある土佐清水市で生まれたジョン万次郎こと、中浜万次郎。生誕の地に足を運んだ時に、地元の有志が書いたであろう「ジョンマン・スピリット」が壁に掲示されていたのを見て、一気に虜になったのだ。恋におちるきっかけはなんとも単純だ。
数奇な人生の幕開け。「置かれた場所で咲きなさい」を体現する若き日の万次郎。
1827年、今から遡ること約200年前に万次郎は生まれた。それから始まる人生が数奇なものになるとはこの時まだ知る由もない。ジョン万次郎は9歳の時に父親を亡くし、幼い頃から漁師として働いていた。1841年、万次郎が14歳の時、仲間たちと漁へ出て遭難。数日間漂流したのちに太平洋に浮かぶ島へ漂着するが、そこは無人島。食糧も絶え絶えの中143日間も生き延びていた時、たまたま通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救出される。(ここで助かる万次郎と仲間たちもすごい!)
日本が鎖国時代だったこともあり、安全なハワイへ万次郎の仲間たちを降ろすが、万次郎だけはここで違う選択をする。ホイットフィールド船長から「アメリカへ連れて行きたいが、君の気持ちはどうだ?」と問われ、万次郎は1人アメリカへ付いていく決心をする。この時船の名ジョン・ハウランド号からつけられたあだ名の「ジョン・マン」が現代「ジョン万次郎」と呼ばれる所以である。
1843年に万次郎がアメリカへ渡った後、船長の養子となり学校で英語・数学・測量・航海術・造船技術など様々な分野を学んだ。これは日本人で初めてのアメリカ留学生が爆誕した瞬間でもあるのだ。さらに万次郎は語学の壁を乗り越え、熱心に勉強に励み、主席になるほどの秀才ぶりを発揮する。(イケメンがすぎる!)
卒業後は捕鯨船に乗り、21歳の若さで一等航海士として副船長を務める。数年の航海を経て日本に帰ることを決心した万次郎。帰国資金を稼ぐためにゴールドラッシュの起こるカリフォルニアの金鉱で3ヶ月程度働き、ハワイに置いてきた漂流仲間の元へ向かう。アドベンチャラー号と名付けた船を用意し、いざ日本に向け出航。(仲間思いの素晴らしい人格。最高。)
漂流以来、10年ぶりに帰ってきた母国。記念碑がピシッと指差す先は生誕の地、高知県土佐清水市。
1851年に薩摩藩領の琉球、現在の沖縄県に上陸。1841年の漂流以来、10年ぶりに自分の意志で日本にたどり着いたその地こそ沖縄県糸満市大度(いとまんしおおど)にあるジョン万次郎・上陸の地である。ジョン万次郎像がピシッと指差す先にあるのは生まれ故郷の高知県土佐清水市である。約10年間の内に漂流、無人島生活、アメリカ留学、金鉱勤め、仲間と合流するためハワイ島を経由してやっと万次郎が帰ってきた場所である。
筆者は、万次郎が生まれた場所で恋に落ち、久々に日本に帰ってきた場所に立っていると思うと感慨深いこと、この上ない。あぁこの地を、この海を万次郎もきっと見ていたに違いない!そう思うと、胸が熱くなり心の中で「おかえり」と言いたくなった。
「坂本龍馬の時代に、日本史で出てくる人だよね」では終わらせたくない!ジョン万次郎という世界と日本を繋いだ立役者。
万次郎の功績は日本史にも出てくるので知っている人も多いと思うが、日本に帰ってきた後の万次郎についてもう少し補足する。
高知城下の藩校「教授館(こうじゅかん)」で教授をしていた頃、幕府に呼び出され江戸へ。幕府直参の役を与えられるほどの出世の裏にはペリー来航があり、アメリカで生活をしたことがある唯一の日本人である万次郎は貴重な存在だったのだ。その後も翻訳、通訳、造船指揮、人材育成、日米修好通商条約の批准書交換(※1)のために使節団の一員としてアメリカへ行ったり、捕鯨活動、小笠原開拓、開成学校教授就任、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣と精力的に働き、生涯を閉じた万次郎。
生涯を通して、自分が持つ技術を惜しみなく発揮し、努力し続けたジョン万次郎。彼の数奇な人生は幕末のバイリンガルとして、日本の歴史に大きく尽力したことは間違いなく、今の暮らしがあるのもジョン万次郎の功績が影響していることに違いない。
(※1)批准書:条約の内容について議会や元首の同意や承認がなされた際に作成される公文書。
(参考)ジョン万次郎資料館:https://www.johnmung.info/