2024年3月11日、東日本大震災から13年目の月日を迎えた。能登半島地震の記憶が新しい中、被災地では今もなお厳しい状況下に置かれている人たちも多いと聞く。地震だけではなく各地でも様々な大災害が後を絶たない。
さて、「皆さんはあれから13年目をどんな思いで迎えたのだろうか?」と筆者は自身に問いかけていた。
今回、東日本大震災で大きな被害を受けた仙台市の沿岸部に住む人、もしくは住んでいた人、遠方(県外)から来た人などに13年目の思いについてお話を聞いた。
目次
元住民が語った13年目の蒲生地区とこれから
仙台市の蒲生(がもう)地区(宮城野区)は、東日本大震災前は集落として4地区の町内会があり、多くの営みで栄えていた町である。また、蒲生干潟や日本一低い山とされる日和山(ひよりやま)もある。
町は工業団地として整備されて、元住民たちは移転を余儀なくされた。それ以前にも仙台港築港(1971年)も含めて波乱の歴史を歩んできた地域でもある。そして、元住民たちが反対する中、発電所の建設も進められた。
ところが、2024年3月3日、杜の都バイオマス発電所の1階入口付近に蒲生なかの郷愁館のスペースが新設され、かつての蒲生地区の営みを伝える資料が展示されている。
「和解したかどうかはまた別に環境的な事情で同発電所内(蒲生なかの郷愁館)に入っている」
元住民で、なかの伝承の丘保存会のメンバーで、中野ふるさとYAMA学校代表の佐藤政信さん(77・宮城野区)はそう語った。
さらに、同発電所裏側に新設される倉庫の中には江戸時代を含めた蒲生地区の歴史を紹介(旧舟入堀の近くにあった旧御蔵など中心)するスペースが新設される計画がある。蒲生地区の歴史は後世に何をどう伝えてくれるのか乞うご期待である。
再建により住民が戻ってきた新浜地区の13年目
東日本大震災から13年目を迎えた2024年3月11日、筆者は荒浜センターハウスからレンタサイクルを借りて北は蒲生、南は若林区の井土(いど)、市外にまたいで名取市の閖上(ゆりあげ)まで向かった。
その中で初めて訪問したのは新浜(しんはま)のみんなの家。現在、住民たちの集いの場となり月1回(第3金曜日)、カフェを開いている。
新浜地区は東日本大震災の被害を受けながらも戻ってきた住民も多く、仮設住宅ではなく、自宅に住み続けている人も多い。しかしながら犠牲者も多く、その方々への祈りを捧げるために全国から寄せられた帯や着物を使用して作られた「かえりびな」を飾って展示していた。また、つるしびなも飾られており、来年の阪神・淡路大震災30年に向けても新たな取り組みを始める予定である。
住民の瀬戸勲さん(81)は新浜地区の町内会の顧問も務める。
「今後も新浜地区の美しい松林の自然を後世に伝えていきたい」瀬戸さんはそう語った。
住民たちがかつての暮らしを戻そうとする新浜地区。13年過ぎてもその思いは忘れられないそうだ。
震災遺構が点在する荒浜地区の13年目
筆者は荒浜地区に戻り、同センターハウスにレンタサイクルを返却後に深沼海岸へと向かった。今年は月曜日の割に人出が多く、3月11日に限っては曜日関係なく荒浜地区は追悼の意をもって全国各地から人々が多く駆け付ける。
発災時刻直前には観音前には焼香を上げる人が多く集まっていた。
「14時46分、それでは黙祷!」
それぞれが犠牲者並びに行方不明者を悼んだ。
熊本県から毎年3月11日に来仙している藤井ゆみさん(59)は「被災した土地で暮らす人々の交流を楽しみたい」と話す。岩手県陸前高田市のボランティアがきっかけで、東北に通ううちに3.11オモイデアーカイブ(代表・佐藤正実さん(60))と出会ってつながったのだ。
藤井さんは「これからも交流を楽しみたい」といって颯爽と荒浜を後にした。
そのあと訪れた震災遺構荒浜小学校。震災遺構荒浜小学校とは、震災当日児童や教職員、住民ら320人が避難した荒浜小学校の校舎を震災遺構として公開し、東日本大震災の教訓と地域の記憶を、後世へ伝えているもの。3月11日の災害を忘れることのないよう開館に尽力された方々に感謝。荒浜地区は全国からの観光や追悼行事としての交流の場でもある。
このようにして、追悼行事や復興の分散化がはっきりと見えてくるものだと感じた。
13年目。これから、まだまだ復興や自然災害と向き合う日は続く。