熊本県南阿蘇村には、落差約60メートルを誇り、そのいわれを800年以上前にさかのぼる「数鹿流ヶ滝(すがるがたき)」があります。
昔は滝つぼ辺りから、動画の左側の滝を見上げるような景色でしたが、2016年の熊本地震で周辺は大きな被害を受け、滝の姿を間近で見ることはできなくなりました。
数鹿流ケ滝の由緒
「数鹿流ヶ滝」の名には、どのようないわれがあるのでしょうか。実は歴史上有名な「仇討ち」と深い関わりがあります。
宮崎県の飫肥城(現在の日南市)の伊東氏の先祖には、工藤佑経(すけつね)がいました。もともと平氏の家人であった工藤佑経は、源頼朝に仕え、1193(建久4)年の「富士の巻狩り」の際に曽我兄弟に討たれたこと(いわゆる「曽我兄弟の仇討ち」)は有名です。祐経の子・佑時は伊東を名乗り、伊東氏を継承します。佑時の子孫は日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏となり、徳川幕府では、伊東氏が廃藩置県まで飫肥藩主となりました。
また、伝承として、鎌倉時代初期の1191(建久2)年、阿蘇氏が「下野の狩り」と呼ばれる巻狩りを行いました。この巻狩の際に、追い詰められた鹿が逃げ場を失い数頭が滝に落ちて流された。このため、この滝は「数鹿流ヶ滝(すがるがのたき)」と呼ばれるようになった、といわれています。この巻狩は「富士の巻狩り」の手本となったとされます。
熊本地震の前の阿蘇大橋付近からは、歩いて数鹿流ケ滝の近くまで行くことができ、滝を見上げることもできました。熊本地震以降は間近で見ることはできなくなり、現在は国道57号線の側の展望所から遠望することになります。
一般社団法人みなみあそ観光局「数鹿流ヶ滝」