宮城仙台を代表する河川といえば、広瀬川。
さとう宗幸のヒット曲「青葉城恋歌」内の歌詞や戦国武将伊達政宗の居城「仙台城」の天然の堀であったことでも有名です。
その広瀬川に架かる橋は、電車用の橋梁や下水管橋含め49本。
その中で唯一「広瀬川」の名を冠する「広瀬橋」は、太白区長町と若林区河原町を結びます。
この広瀬橋、実は「日本初の鉄筋コンクリートの橋」とされ、橋の頭上には誇らしげな看板に表記もあります。
しかし、実は「日本初」は琵琶湖第一疏水に架けられた第11号橋の方が古いとのこと。
それでも「日本初」表記の看板をそのままにしているのは、地元住民の広瀬橋への愛着のなせる技なのかもしれませんね。
時代を辿れば、江戸から奥州へと続く奥州街道にあり、橋を渡った北岸の河原町が仙台城下の入り口でした。
当時は「長町橋(永町橋)」と呼ばれ、人・モノの往来に欠かせない橋でありながら、しばしば大水で流され、その都度人々は橋を架けようと苦心したとか。その中でも、何度工事に取り掛かってもその度に濁流で木材が流されなかなか橋を架けられずにいた折、自ら人柱になることを申し出て命と引き換えに人々の架け橋になることを選んだ娘がいたとのこと。
現在は、この言い伝え「橋姫伝説」と共に、橋の袂に供養の祠が祀られています。
そして、その祠のすぐ横には桜の木があり毎年見事な花を咲かせ、橋姫を慰めるだけでなく道行く人々の足をも止めひとときの憩いを与えています。この橋が「広瀬橋」に名を変えたのは明治になってから。
広瀬川に架かる数ある橋の中で、なぜこの橋が「広瀬」の名を与えられたのかは不明ですが、橋から眺める仙台城下は筆者にとっても愛おしい風景です。
きっと、橋姫もこの風景を眺め愛しんでいたのでは……と想いを馳せる毎年の桜の季節です。