東日本大震災が発生してから今年3月で14年となる。福島県内最多のメンバーを誇るアマチュア無線グループの代表を引き継いだばかりの太田智(おおた・さとし)さんは未曽有の災害を経験した当時を振り返り、手記を寄せてくれた。

震災当日、私はいわき市内の商業施設に外出していました。突然、大きな揺れが襲い、一緒にいた仲間が携帯の地震警報を受けて屋外へ避難しました。外に出た瞬間、目の前でアスファルトが波打ち、駐車場の車が上下に揺れ、しゃがみ込む人々の姿がありました。その瞬間、私は「これで終わるのか?」という思いに駆られました。恐怖と驚きが入り混じり、現実の厳しさを実感しました。
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現実であることが信じられない光景を目の当たりに
その後も揺れが続くなか職場に戻ると、建物には目立った損傷はなかったものの、駐車場と建物の間には大きな段差ができ、目の前には言葉にできない光景が広がっていました。テレビには、津波に飲み込まれる名取平野や必死に逃げまどう車の姿が映し出されていました。
これが現実であることが信じられませんでした。そして、私の故郷である相馬の松川浦に津波が押し寄せる光景を目の当たりにし、言葉を失いました。家族全員の安否を確認するまでの時間はとても長く感じられましたが、無事だという情報を受け取ったとき、心の中で大きな安堵(あんど)が広がりました。その瞬間、感謝の気持ちがあふれました。

自宅での避難生活
私の自宅も、屋根瓦の崩落や基礎部分、壁にひびが入るなどの被害を受けました。ブルーシートで応急処置を施し、毎日が復旧作業の日々となりました。
停電は免れたものの、断水が続き、福島第一原子力発電所の事故の影響で屋内退避を余儀なくされ、家族との生活は非常に厳しいものでした。
しかし、そのような中で私を支えてくれたのは、アマチュア無線のグループメンバーたちでした。私が事務局を担当していた「いわきオーロラグループ」の仲間たちが、私たちの生活を支えるために手を差し伸べてくれました。
湧き水を大型タンクに汲んで運び、生活用水として活用できるよう手配。さらには入浴の提供にもつながりました。一軒は井戸水を、もう一軒は運ばれた湧き水を沸かしたお風呂に入ることができました。さらには瓦の修繕に必要な材料の手配まで、無線ならではの「つながり」が実を結んだ瞬間でした。



そして、交流のあった新潟のアマチュア無線仲間が支援物資を募り、マイカーに積み込んで届けてくれたことは忘れられません。

「つながり」がもたらした復興と前向きな未来
震災後、いわき市内ではアマチュア無線を使って給油可能なガソリンスタントなど生活に必要な情報を交わしていました。しかし、いわき市外への情報発信には時間がかかりました。それは、震災と原発事故による甚大な被害の中で、日々の生活を維持するだけで精一杯だったからです。自分の生活の見通しがつくまでは、被災の現状を他のエリアへ発信しようという気持ちにはなれませんでした。それでも、私は次第にこの状況を乗り越え、日常を取り戻すために何かできることを考えるようになりました。アマチュア無線での情報発信を進め、さらに趣味であるジョギングや登山も再開することができました。
復興には時間がかかり、日常を取り戻すには何度も試練が待ち受けていましたが、その中で私は「人と人とのつながりこそが、困難を乗り越える力となる第一歩だ」と強く感じました。私たちは孤立しているわけではなく、いつも何かしらのつながりの中で支え合っているのです。
これからも広がる「つながり」の力
今も復興は続いていますが、私はこれからもアマチュア無線の醍醐(だいご)味を楽しみながら、つながりの輪を広げていきたいと考えています。点と線がつながり、それが大きな輪となって広がります。人と人とのつながりが、どんな困難も乗り越える力を生み出すのだと信じています。私の体験の一つひとつは決して無駄ではなく、それが今も私にとって大きな原動力となっています。
