
バリ島のタンパクシリン、パケリサン川の渓谷の底に、古代の祈りが刻まれている。巨大な岩の斜面に、約7メートルもの高さの10基の祠(ほこら)が直接彫り込まれた遺跡——それがグヌン・カウィだ。
このような「岩山から掘り出されたような寺院」はバリ島でも極めて珍しく、渓谷の緑と川の水に囲まれた姿は、訪れる者を古と現代の境界へと誘う。
目次
単なる墓ではない
グヌン・カウィは11世紀ごろ、ワルマデワ朝の王族を祀(まつ)るために造られたと考えられている。複数の祠は、王アンナク・ウングス王やその家族に捧げられたという説があり、石碑や碑文とともにその歴史が伝えられている。
ただしこの遺跡は、単なる「墓」ではない。古来から祈りや顕彰の意図を持つ記念碑的な場として機能してきたという見方が有力だ。
グヌン・カウィの主体となるのは、崖面に彫られた10の祠であり、それぞれが異なる人物への捧げものと推定されている。東側の一群には、王とその主要な家族に捧げられたとされ、西側には側室や親族が祀られているという解釈もある。

谷底という場所の意味
多くの寺院が山腹や高地に置かれるのに対し、グヌン・カウィは谷の底、川に最も近い場所にある。
これは偶然の配置ではない。バリ・ヒンドゥーの思想では、「山=神聖」「水=浄化」という象徴があり、川のそばで祈ることは、心身を清める行為そのものとされてきた。参拝者が長い階段を降り、水辺へと近づく動線そのものが、精神的なプロセスと結びついている。
実際のルートを歩くと、参道は稲田や自然の風景を抜けて谷へと入り、川の水の音とともに空気が変わっていく。石段を下る身体の動きは、まるで外界の俗世から離れ、内面へ向かう心の準備のようにも感じられる。
グヌン・カウィの建築様式自体も、11世紀のバリ文明が持っていた高度な彫刻技術と宗教観の深さを物語る。広大な岩壁に均一な高さで彫り込まれた祠は、自然と建築が一体化した造形であり、他地域の丘や山に建てられる寺院とは異なる静謐(せいひつ)な印象を与える。

体感としてのグヌン・カウィ
筆者自身も、参道の階段を一歩一歩降りていった。深い谷から聞こえてくるのは、水音と鳥の声、そして自分の足音だけだった。雨が突然降り始めても、その場に立ち尽くすしかないという状況は、むしろ自然と遺跡とが一体化するような体験だった。
下りで感じた身体の重さが、帰りの上りではどこか軽やかになっていることに気がついた。これが「浄化のプロセス」なのかどうかはわからない。それでも、体と心の間に静かな変化が生まれていたのは確かだ。体験としての聖域性が、ただの建造物を超える何かを遺跡に与えていた。
グヌン・カウィは、現在もヒンドゥーの信仰に基づいた聖地であり、地域の人々が祈りに訪れる場所でもある。そのため、単なる観光遺跡としてではなく、現代の信仰と古代の記念碑が共存する場としての価値を持っている。
この遺跡を訪れることで、古代バリの人々が自然や生命、権力とどう向き合っていたのかを感じることができる。谷底の静けさと、刻まれた祈りの深さに身を委ねることは、単なる観光以上の体験になるはずだ。


※写真は全て筆者が撮影(2026.01.03)





