
名古屋市瑞穂区にある名門校、愛知県立瑞陵(ずいりょう)高等学校(以下、瑞陵高校)は、政財界や学術、文化方面などに多くの人材を輩出しています。名古屋のイメージがあまりない江戸川乱歩、「東洋のシンドラー」杉原千畝(ちうね)も現在の瑞陵高校出身です。瑞陵高校正門横にある顕彰施設「杉原千畝広場」に掲示されているパネル、会報などの資料から、二人の功績をご紹介します。
目次
瑞陵高等学校について

現在の瑞陵高校は、1907(明治40)年創立の愛知県立第五中学校を前身としています。多彩な人材を輩出しており、江戸川乱歩は旧制第五中学校(以下、五中)の一期生です。「東洋のシンドラー」として知られ、多くのユダヤ人を救った外交官 杉原千畝は乱歩と入れ違いに入学しました。

また現在の名古屋市長、広沢一郎、さらにはお笑いトリオ「パンサー」の向井慧も瑞陵高校出身です。
乱歩と名古屋

明智小五郎や怪人二十面相を生み出し、日本の探偵小説の祖とされる偉大な作家、江戸川乱歩(本名 平井 太郎 1894-1964)は現在の三重県名張市で生まれましたが、実は幼少期から五中卒業までの15年間を名古屋市で過ごしています。乱歩が名古屋市内で一番長く住んだ住居は、名古屋を代表する繁華街である栄のど真ん中にあったそうで、その業績を多くの人に知ってもらうため「江戸川乱歩旧居跡記念碑」が2020年に建立されました。

記念碑は栄交差点のスカイルビルの前に建てられています。

乱歩が名古屋で過ごした15年間は人格形成期であり、後の名作に大きく投影されています。瑞陵高校同窓会会報の2014年「瑞陵会報」によると、五中時代の乱歩はさまざまな伝説を残しているそうです。
①五中初の自転車通学生
乱歩は五中初の自転車通学生だったそうです。当時はまだ自転車は極めて高価で、五中卒業の年に父親の事業が倒産するまでは裕福な生活をしていた乱歩だからこそ、自転車通学が可能だったとのこと。栄の自宅から数キロの道のりを毎日通っていました。
②五中初の停学処分
医者の勧めで、心臓が弱かった乱歩は自転車での遠距離通学をやめ、五中構内の寄宿舎に入ります。同宿の悪友と共に満州に渡って牧畜をやろうと寄宿舎から逃亡しますが、汽車にも乗らないうちに捕まり停学処分になったそうです。このせいで退寮となっています。
また友人と作った探偵小説の雑誌を小学生に売りつける、ということもしていたそうです。
③五中同級生との初恋
男子校の五中では、当時同級生とのプラトニックな恋愛が流行していたそうで(当時の男子校の旧制中学での全国的な傾向だったようです)、ラブレターの交換が盛んだったそうです。乱歩自身も15歳の時に「相当有名な美少年」である五中の同級生と両思いの「プラトニックな恋」を体験したそうです。しかしラブレターは盛んに書くものの、ろくに口もきけず手を握るだけの初恋は長続きせず、自然消滅。間もなく、この同級生は五中卒業を終えないで病気のため夭折(ようせつ)したそうです。
杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル

瑞陵高校正門の西隣に、杉原千畝(1900-1986)の功績を伝える施設「杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル」があります。オープンスペースにあるので、24時間誰でも見ることができます。なおヨーロッパの人には「ちうね」は発音しにくいため、音読みの「センポ」として知られています。

杉原千畝は現在の岐阜県八百津町で生まれました(美濃市という説もあり)。税務官吏である父親の異動のために各地を転々としましたが、父親の韓国単身赴任後は名古屋に住み、旧名古屋古渡尋常小学校(現:名古屋市立平和小学校)と五中に通いました。乱歩同様、杉原も多感な時期を名古屋で過ごしました。

杉原千畝広場は2018年に完成しました。完成式典には杉原氏のご家族や、ポーランド、イスラエルの大学教授や大使なども出席しました。
静かで広々とした広場で、取材時には学校帰りの生徒さんや地域の方もベンチで談笑していました。

広場は4つのゾーンに分かれています。展示パネルにはスマートフォンで聴ける音声ガイダンス案内が表示されています。

杉原千畝は五中卒業後上京し、英語教師を目指して早稲田大学高等師範部英語科に進みます。しかし生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験に猛勉強の末合格し、早稲田は中退しました。
その後ロシア語研修生として中華民国のハルピン学院で学び、優秀な成績を収めます。満州国外交部を経て外務省に復帰した杉原は、1939年8月にリトアニアの在カウナス日本領事館に赴任します。
「命のビザ」

「命のビザ」それは、杉原千畝が独断で発給した日本通過ビザのことを指します。
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発します。ポーランド西部はドイツに、東部はソ連に占領され、ポーランドのユダヤ系住民はナチス・ドイツとソ連の脅威から逃れるために、リトアニアの日本領事館に殺到しました。彼らが生き延びるには、日本を経由して第三国へ逃れるための「通過ビザ」が必要不可欠でした。

杉原は日本外務省にビザ発給の許可を何度も求めましたが、外務省は「受入国の入国許可があること」などの厳しい条件を理由に拒否し続けました。

しかし、窓の外で助けを求める難民たちの惨状を目の当たりにした杉原は、「人道上、拒否できない」と、決意します。ついに独断で、本省の命令に背く形でのビザ発給を開始しました。

領事館が閉鎖され、リトアニアを去る列車が動き出すその瞬間まで、杉原は万年筆を握り、数千人の命を救うためのビザを書き続けました。彼の発行したビザによって、多くの尊い命が救われました。

「命のビザ」を受け取ったユダヤ人は、リトアニアを脱出してシベリア鉄道でウラジオストクまで行き、船に乗って敦賀に上陸、そして神戸に向かいました。神戸に滞在したユダヤ人難民は杉原ビザ保有者を含めて4,000人を超え、次の目的地が決まるまで1週間から数カ月間神戸に滞在しました。

ビザを出したユダヤ人リストのレプリカが壁にズラリと並んでいます。

その後、杉原一家はルーマニアのブカレスト公使館で終戦を迎えます。杉原はブカレスト郊外の捕虜収容所に収監され、1947年に家族と共に帰国しました。
数千人の命を救った杉原ですが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告でした。
外務省退官後、さまざまな職に就きましたが、ロシア語が堪能だったため商社に勤務し、モスクワに駐在しました。
名誉回復

戦後、杉原はイスラエル政府や「杉原ビザ」の受給者たちから所在を探し求められていました。1968年、かつてビザを受け取ったヨシュア・ニシュリと都内で再会します(ニシュリは当時東京のイスラエル大使館で外交官として働いていました)。これをきっかけに、杉原が救った人々の多さと、その功績が国際的に知られるようになります。
1985年、イスラエル政府より、日本人で唯一「諸国民の中の正義の人(ヤド・ヴァシェム賞)」が授与されました。

杉原は1986年にこの世を去りますが、日本国内での公的な評価が定まるまでには、さらに時間を要しました。
1991年、当時の佐藤嘉恭外務大臣官房長が、杉原夫人にこれまでの対応について非礼を詫び、再評価の動きが進みます。
2000年、杉原の生誕100周年を記念し、当時の河野洋平外務大臣が顕彰プレートの設置式典で演説を行いました。
「外務省として、杉原氏の勇気ある人道的判断を称え、長くその名を記憶に留める」と、日本政府としてその功績を称えました。
また、名古屋市は杉原千畝の功績をたたえ、当時の居住地付近から出身校である五中(現・瑞陵高校)を結ぶ全長約4.5キロメートルを「杉原千畝 人道の道」と名付けています。コース内各所に銘板があり、杉原千畝のエピソードなどを読むことができます。
ウォーキングコースとしても最適ですね。
杉原に思いをはせて平和について考えながら、歩いてみてはいかがですか?
情報
杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル
住所:愛知県名古屋市瑞穂区北原町2-1(愛知県立瑞陵高等学校 正門西側)
交通:名古屋市営地下鉄桜通線 瑞穂区役所駅(4番出口) 西へ約400m、名古屋市交通局 市バス瑞穂区役所西へ約450m、名古屋市交通局 市バス豊岡通より北へ約650m
公式サイト https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kyoiku-somu/zuiryo-kensho.html
江戸川乱歩旧居跡記念碑
場所:名古屋市栄交差点の西南角の歩道(栄スカイルビル前)
交通:名古屋市営地下鉄東山線・名城線 栄駅 サカエチカ7番出口よりすぐ
公式サイト http://www.sakaemachi-shotengai.com/edogawa/ranpo.html
名古屋市で少年時代を過ごした杉原千畝ゆかりの地をめぐる【人道の道】:(名古屋市シティプロモーションサイト やさなご)https://www.promotion.city.nagoya.jp/news/3075/
杉原千畝顕彰事業について:(名古屋市)https://www.city.nagoya.jp/shisei/jinken/1011040/1035231/1011043.html
一般財団法人 杉原千畝記念財団:https://www.sugihara-foundation.org/
・杉原千畝記念館(八百津町):https://www.town.yaotsu.lg.jp/sugihara-museum/
・リトアニア・カウナス 杉原記念館:https://www.sugiharahouse.com/ja





