
冷たい風が吹き込む春彼岸(ひがん)の2026年3月21日、福島県会津若松市花春町の会津松平氏庭園御薬園(おやくえん)の門前で、小松獅子保存会(会津若松市北会津)による彼岸獅子の演舞が披露された。前日の20日は気温が14度近くまで上がり春の陽気だったが、この日は一転して曇天。最高気温は8度に届かず、北風の中、コートの襟を立てながら開演を待つ観客の姿も見えた。それでも庭園には子どもから高齢者まで約100人が集まり会津の歴史と人の営みを今に伝えた。
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会津彼岸獅子の由来と広がり
彼岸獅子の起源は約400年前に下野国(現在の栃木県)から伝わった「三匹獅子」が会津各地に広まったとされる(諸説あり)。春彼岸に舞われることからこの名がついたとも、疫病退散の祈願として寺社に奉納されたことに由来するとも言われている。

特に小松獅子保存会の特徴は、その歴史的背景にある。戊辰戦争の際、家老・山川大蔵(後の山川浩)が鶴ヶ城へ帰還する際、新政府軍に包囲された緊迫のなか、小松村の彼岸獅子が先導し「通り囃子」を奏でながら進軍。敵味方の識別が難しい状況の中、敵に会津藩兵とは気づかれないまま、その音色によって城内の者が門を開け、迎え入れたと伝えられている。
この功績により、1871年に旧藩主から会津葵紋の使用を許された。殿様の紋を授かることは最高の名誉とされ、現在も太夫獅子の頬掛(ほおかむり)や提灯(ちょうちん)にその紋が受け継がれている。
海外にも広がる伝統と継承への思い

公演前のあいさつで保存会代表は「先人が残した技を忘れず、後世につなぐことが責任」と語り、観客に理解と協力を呼びかけた。かつては会津若松市内だけでも30を超える保存会が存在したが、現在は7団体ほどに減少しているという。
また、同保存会は東日本大震災後の2015年、復興発信の一環として他団体とともにミラノ(イタリア)万博にも参加し、会津の文化を海外に紹介。長い年月の中で継承されてきた文化が、今は限られた担い手によって守られている現状があるものの、地域の芸能が世界へと広がっている事実は、この伝統の持つ力を物語っている。
三つの演目に込められた祈りと物語

最初に披露された「庭入り」は、その場を清め、観客の無病息災を祈る舞である。続く「幣舞(へいまい)」では、幣舞小僧と獅子が軽妙なやりとりを見せ、子どもの健やかな成長を願う意味が込められている。三曲目の「山おろし」では、三匹の獅子が山から下りてくる様子がゆったりと表現された。
私は黒を基調とした衣装の美しさに目を奪われた。一般的な獅子舞のイメージとは異なり、黒クジャクのようなどこか気品を帯びた姿。腰を低く保ち続ける独特の所作には一つ一つの動きに意味が宿っているように感じられた。
御薬園で見るからこそ伝わるもの

江戸時代から続く会津の三大庭園のひとつ・御薬園でこの舞を見ることにも、大きな意味があるように思えた。この場所で披露されることで、彼岸獅子は単なる郷土芸能ではなく、会津の歴史そのものと響き合う存在として立ち上がってくる。
演舞が終わると、観客から静かな拍手が広がった。大きな歓声が上がるわけではない。だが、その控えめな拍手の中には、この芸能を受け止めた観客の深い敬意がにじんでいた。
春の訪れを告げる彼岸獅子は、季節だけを運んでくるのではない。その舞は季節だけでなく、幾重にも重なる会津の時間を今に運んでいた。私はその場に立ちながら、受け継がれてきたものの重さと尊さを静かにかみしめていた。そこには、会津の人々が積み重ねてきた時間と祈りが折り重なっている。冷たい風の中で響いた笛と太鼓の音は、舞が終わったあとも長く胸の内に残った。





