片山幸子(74)は、御殿まり(ごてんまり)や染物の作家だ。20年以上にわたり創作活動を続け、地元では「御殿まりのひな人形」や「絞り草木染め長着」の作品が代表作として知られている。彼女の創作の原点を探ると、それは東京にあった。昭和に活躍したある女性との出会いが、彼女の人生に彩りを加えたのである。地元に戻り、創作に打ち込む彼女の半生を追った。
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3年の約束で上京、宇野千代との出会い
片山は北秋田市の合川で育った。手芸好きであったことから、高校の教員の紹介で東京の「きもの研究所」に就職。両親と3年間の約束で上京する。そこで、ある女性に出会った。宇野千代である。
宇野は、作家の尾崎士郎や画家の東郷青児ら才能あふれる男性との華やかな恋愛遍歴で知られる、作家で着物デザイナー。4度の結婚と離婚を繰り返した、昭和の破天荒ガールだ。青山の「きもの研究所」は、その宇野が設立した会社だった。
会社と社員寮が同じ建物にあったため、会社の隣に自宅があった宇野とほぼ同居するような生活を始めた片山。宇野と一緒に民謡や阿波踊りの習い事にも通い、東京生活を満喫したそうだ。東京時代の写真からは、充実した生活ぶりがよく伝わってくる。一緒に社員旅行にも行き、徳島で阿波踊りを披露したこともあったとのこと。何とも華やかな青春時代である。
戻った地元・合川で御殿まり作りを始める
こうして宇野の会社で着物の在庫管理などを担当し、親と約束した3年間を1年だけ延長して4年ほど東京で暮らした後、片山は合川の実家に戻ることを決める。自由奔放な宇野と暮らしていたのであれば、その影響で東京に残りそうな気もするが、片山は約束通り帰郷した。東京への未練はなかったのだろうか?当時の心境を、片山は次のように語る。
「東京での生活は楽しかったけど、賑やかすぎて自分には合わないと思った。約束通り、生まれ育った場所に戻るのが自然だなと。」
東京での生活を経験した上で、地元・合川の人の純朴な人柄や、豊な自然の中での生活の方が、自分には合っていると思ったのだそうだ。そこから2年ほど家業を手伝い、その後、結婚。銀行員であった夫の仕事の都合で能代市や秋田市に移り住んだが、娘が小学校に入学する頃に、再び合川に戻る。
そして、公民館の御殿まり講座を受講したことをきっかけに、御殿まりの制作にのめり込む。1997年には、御殿まり作りのためのサークル「てまりの会」を立ち上げた。毎年開催されている「北秋田のおひなまつり」では、てまりの会が制作した見事な御殿まりの「ひな人形」や「連獅子」等の作品が展示されている。
また、昨年の秋からは合川小学校の6年生が行っている交通安全運動のために、魔除の意味のある「麻の葉模様」の小さな御殿まりのキーホルダーを100個以上制作し、同小学校に寄付するというボランティア活動も行っている。片山は「自分の得意分野で、楽しみながら地域に貢献していきたい」と語る。
片山の作品の中で生き続ける、宇野の自由な精神
片山は御殿まり以外でも、織物や染物、糸紡ぎ、縫い物や編み物にも取り組んでいる。その中でも、特に御殿まりと染物の芸術性は高く評価されており、秋田県や北秋田市の「美術展覧会 工芸の部」で何度も入選を果たしている。2007年には、北秋田市の芸術文化奨励賞も受賞した。
その創作活動には、やはり宇野がデザインした美しい着物や、青山の家で使用していた骨董品を見ることで養われた、美的感覚が生かされているそうだ。もしかしたら、宇野千代の自由な精神は、時代と場所を超えて、片山の作品の中で生き続けているのかもしれない。片山はこれからも創作活動を精力的に続けていきたいそうで、以下のように語ってくれた。「父の会社の建物を今は自分の工房として使っているので、そこに通いながら創作活動を続けていきたい。『てまりの会』の生徒さんもいるので、彼女達に必要とされている内はサークル活動も続けるつもり。」
(敬称略)
【編集後記】
今回の取材を通して、片山さんのように都市部に一度出たとしても、本人が望むのであれば故郷に戻れる社会であってほしいと思うようになりました。革新的な変化を生み出すダイナミズムの核となる大都市に人々は地方から吸い上げられ、人が密集して住むことで効率性が担保されているわけですが、長い歴史の中で人はどんなに過酷な自然環境であっても、その生息域を押し広げてきたはずです。先祖代々住み続けてきた場所で、静かに暮らしたいとその人が望むのであれば、それが可能な社会であってほしい。片山さんには厳しくも美しい自然の中で、美しいモノを生み出しながら生活していってほしいと思います。これからの作品にも、大いに期待しています!