
歴史に「もし」はありませんが、本能寺の変で織田信長が生きていたら、日本の歴史は変わっていたかもしれません。そんな歴史の転換点、本能寺の変から生きのび、博多の復興にも大きな役割を果たした「島井宗室」(しまい そうしつ)。
彼の屋敷跡には石碑のみが立っています。屋敷の塀の一部は「博多屏(はかたべい)」として櫛田(くしだ)神社内に保存され、博多に生きる人々のたくましさを今に伝えています。
目次
バスから見えた謎の石碑

私が、福岡市天神へ向かうバスに乗っていたときのこと。窓越しに一瞬だけ、視界の端に石碑らしきものが見えました。通り過ぎるにはあまりにも気になる存在だったので、一度仕事を終わらせた後、現地へ向かいました。

戻ってみると、それは「島井宗室屋敷跡」と刻まれた石碑でした。周囲はビルや道路に囲まれ、屋敷の面影らしきものは見当たりません。
車と風が通り抜ける静かな場所で、なぜか石碑だけがぽつんと立っていました。その場をぐるりと歩き回りましたが、他に手がかりはありませんでした。
「なぜここに石碑だけがあるのだろう」そんな疑問が立ち上がり、調べてみることにしました。
島井宗室とは
調べてみると、島井宗室は、神屋宗湛(かみや そうたん)・大賀宗九 (おおが そうきゅう)と共に博多三豪商のひとりに数えられる人物です。

島井宗室は茶人としても知られ、名物の茶道具「楢柴肩衝」(ならしばかたつき)を所有していたことで有名です。
「新田」(にった)「初花」(はつはな)「楢柴」(ならしば)の3つの肩衝をそろえた者は天下を取れるとまで語られていました。
織田信長は、「新田肩衝」「初花肩衝」をすでに所有していたので、残る「楢柴肩衝」をのどから手が出るほど欲していたとも言われています。
そして、島井宗室が本能寺において織田信長に謁見(えっけん)したのは1582年6月1日。その翌日には明智光秀による「本能寺の変」が起こり、織田信長は討たれてしまいますが、島井宗室は生き延びています。
戦乱の渦中にいながら命をつないだだけでなく、その後も商人として活動を続けた点は、驚くべき出来事です。
当時の博多は、大友・毛利・島津氏による領土争いに巻き込まれ、焼け野原となりましたが、豊臣秀吉による九州統一がされました。その後、豊臣秀吉による都市計画「太閤町割」(たいこうまちわり)において島井宗室は、荒廃した博多の復興に関わったとされています。単なる商人ではなく、都市の再生に関与した存在でもありました。
一方、織田信長を目の前にして、名物道具を簡単には手放さなかった逸話も残っており、自らの価値観を貫く強さを持っていた人物像が浮かび上がります。
屋敷跡と博多塀(はかたべい)

石碑の場所に屋敷の痕跡が見当たらなかったのには理由がありました。宗室の屋敷跡に残っていた土塀の「博多屏」は、櫛田神社境内に移築保存されていたのです。

実際に足を運んでみると、そこには独特の風合いを持つ塀がありました。瓦や石が混ざり合っています。それが不思議と美しく、強さと芸術性を感じさせます。

説明によれば、この「最後の博多屏」は度重なる戦禍を耐え抜いたものでもあります。長い年月を経て、なお残り続けたこと自体が、歴史の重みを物語っています。石碑だけでは見えなかったものが、ここには確かに存在していました。


博多屏に見る人々のたくましさ
博多屏を間近で見ると、焼けた瓦や小石などさまざまな瓦礫(がれき)が混ざっていることに気づきます。統一感よりも、「使えるものは何でも使う」という心意気さえ感じられました。

これは、戦国から近世にかけての、博多の町人文化を象徴しているとも言えるのではないでしょうか。度重なる戦乱や焼失を経験した土地で、人々はゼロからではなく、残ったものを生かして再生してきた。

その姿は、島井宗室の生き方ともどこか重なります。激動の時代を生き延び、自分の価値を守りながら、次の時代へとつないでいく。
バスの窓から見えた私の直感が、ひとりの商人と博多の歴史へとつながりました。
石碑だけでは分からなかった物語は、場所を移し、形を変えながら今も残っています。そしてその痕跡は、静かにこちらへ語りかけてくるようでした。
※写真は全て筆者撮影
情報
島井宗室屋敷跡
所在地:福岡市博多区中呉服町58
博多屏
所在地:福岡県福岡市博多区上川端町1-41 櫛田神社境内





