みなさん「古墳」は好きだろうか。筆者は大好きだ。古墳を見ると胸がキュンと締め付けられる。きっとみんなもそうだろう。
思えば古墳との出会いは、中学生の時、たつみや章作の児童小説「ぼくの・稲荷山戦記」だった。確か自宅の裏山の古墳に神様がいたみたいな話だった。その後和製ファンタジーの「空色勾玉(そらいろまがたま)」を読んで決定的になった。古墳にはファンタジーが詰まっている。
中学2年の夏休みには、電車で2時間かけて行田市のさきたま古墳群まで行き、中学3年の奈良の修学旅行では奈良県内のすべての古墳の形を事前学習でイラストにしてまとめて、先生たちを呆れさせた。韓国に行った時に一番行きたかったのも、慶州にある古墳である。
さて、そんな古墳ラバーの筆者が、これまでで一番驚愕したのが、福岡県八女市の岩戸山古墳である。
久留米駅からバスで1時間ほどの八女市北部にある岩戸山古墳だが、6世紀の筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墓と言われている。
磐井の乱を覚えているだろうか。筆者もよくわからなかったのだが、古墳に隣接する岩戸山歴史文化交流館いわいの郷を見てよくわかった。
当時ヤマトは朝鮮半島の百済に援軍を出したかった。九州北部の有力者である磐井は、百済の敵である新羅と仲が良く、ヤマトの出兵要請を拒否。ヤマトと戦争になり1年半の戦いの後、磐井は敗れたという。
要するに磐井は九州北部の王なのである。この地域の古墳群は「王家の丘」と呼ばれ、八女市、広川町に集中している。その中でも最大の岩戸山古墳は全長138メートルある前方後円墳だ。
この地域の古墳の特徴は、埴輪ではなく、石人石馬が出土するところだ。岩で作った人や馬である。明らかにヤマトとは違う文化であると主張しているように思える。
そんな岩戸山古墳だが、古墳の上に登ることができる。かつて円墳部に神社があった名残だ。
階段を登り、嬉々として古墳の上に立った時筆者は気づいた。前方部から円墳部にかけて下り坂になっているのである。
ご存じない方に説明すると、前方後円墳は横から見ても鍵型になっていて前方部から円墳部ににかけては必ず下り坂になっているのが元の形なのである。
「ああ、これは1500年前の下り坂そのものだ」
そう気付いた時、鳥肌が止まらなかった。