
大学を語るとき、よく持ち出されるのが「偏差値」だ。
「あの大学は偏差値が高い」「この大学はそれほどでもない」。時には、入試難易度だけで大学そのものの価値まで決められてしまうこともある。
しかし、偏差値が表しているのは、基本的には大学へ入る時点での学力だ。その数字だけで、大学で何を学び、何を身につけたのかまで分かるものなのだろうか。
今回は、東京大学へ入学するまでの18年間を福島県福島市で過ごし、現在は横浜国立大学で教鞭(きょうべん)を執る板垣勝彦(いたがき・かつひこ)教授に話を聞いた。
全国模試で上位に入り、東京大学へ進学した板垣教授だが、本人は大学入学後について「燃え尽きた」と振り返る。
そんな板垣教授は、大学で本当に身につけるべきものをどう考えているのか。
話を聞いていくと見えてきたのは、「どこの大学に入ったか」だけでは測れない、大学で学ぶことの意味だった。
目次
「法律によって行政活動をコントロールする」行政法

板垣教授の専門は「行政法」だ。そもそも行政法とは、どのような学問なのだろうか。
「行政法を簡単に言うと、『法律によって行政活動をコントロールする分野』ですね」
国や県、市町村、警察などの行政機関は、私たちの暮らしに深く関わっている。その一方で、大きな権限を持つ以上、その使われ方が適切なのかをチェックする仕組みも必要になる。
「行政機関は我々国民のために働いています。一方で、無駄遣いや権力の行使など、『やり過ぎてしまう』場合もあります。それを防ぐために、法律によってコントロールしようというのが行政法です」
ただし、行政法は一つの法律の名前ではない。
「憲法や民法などとは異なり、『行政法』という一つの法律があるわけではありません。実際には『行政手続法』『行政事件訴訟法』『都市計画法』『生活保護法』など、非常に幅広い法律が含まれます」
その中でも板垣教授が特に研究しているのが、「都市計画」や「街づくり」、そして「事業法」だ。
「行政法全般を一通り研究していますが、特に『都市計画』や『街づくり』、それから『事業法』を専門にしています。いわゆる『業法規制』ですね。たとえばIT業界や放送・通信業界など、それぞれの業界を対象とした法律や規制があります。そうした分野を研究することが多いです」
板垣教授のホームページを見ると、趣味で制作した鉄道模型のジオラマも掲載されている。
「街づくりはもともと好きなんです。都市計画法の研究にもつながっているのかもしれません」
研究テーマと趣味は、意外なところでつながっているようだ。
全国模試では常にトップクラス。それでも東大入学後に「燃え尽きた」

板垣教授は、どのような学生だったのだろうか。
「児童書を含め、本を読むのは好きでしたね。勉強もできたので、学校の先生には可愛がられました。一方で、体育には多少の苦手意識がありました」
地元の市立小学校を卒業した後、大学教育学部の附属中学校へ進学。その後は地元の進学校に通った。
「田舎の進学校でしたが、首都圏の学校によくある『成績の良い子たちを集めたクラスに編成する』ことをしなかったところが、私にとっては居心地が良かったです」
全国模試では県内1~2位をキープし、全国でも10番台に入ることがあったそうだ。そして東京大学を受験し、合格した。
受験という物差しで見れば、申し分のない「成功」と言えるだろう。
ところが、本人は大学入学後をこう振り返る。
「東大入学後に、少し燃え尽きた感じになりました」
大学に入ること自体が大きな目標になっていた。そのため、入学した後に何をするのか、改めて考えることになったという。
親からは弁護士になることを勧められたが、本人はあまり気が進まなかった。
進路について考える中で、身近にいた大学教員の姿にひかれ、最終的には研究者の道へ進んだ。
「どれほど難易度の高い大学に合格したとしても、『入学したこと』だけでその後の人生が決まるわけではないですよね。入学はあくまで入口です。その先で何を学び、何に関心を持ち、どのような道を選ぶのか。むしろそこから始まると思います」
大学に入ることと、大学で何をするかは別の話なのだ。
大学で手に入るのは「答え」ではなく「世界を見るフィルター」

では、大学で学問を学ぶことには、どのような意味があるのだろうか。
話の中で板垣教授が何度も触れていたのが、「世の中の見え方が変わる」ということだった。
「私の場合は法学ですが、法律というフィルターを通して世の中を見る。そうすると、それまでとはものの見え方が違ってくるんですよね」
たとえば行政法には、「平等原則」という考え方がある。
板垣教授は、公務員向けの研修でもこの言葉を例に挙げるそうだ。
「『平等原則』という言葉を知らなくても、市民を平等に扱わなければいけないことは皆さん分かっています。でも、『平等原則』という言葉を知って、その枠組みで理解すると『では、この場合はどうなんだろう』と考えを深められるんです」
人を平等に扱うべきだという感覚は、学問を知らなくても持つことができる。
しかし、「平等原則」という概念を知れば、なんとなく感じていたことを整理し、言葉にできるようになる。さらに、その考え方を別の事例に当てはめたり、他人と議論したりすることもできる。
学問は、感覚的に捉えていたものに「名前」や「枠組み」を与えてくれる。
これは法学に限った話ではない。経済学を学べば、「それは経済的に合理的なのか」という視点が生まれる。歴史学を学べば、目の前の出来事を長い時間軸の中で見るようになる。
大学で学ぶのは、あらゆる問題への「正解」ではない。むしろ、「この問題をどう見るのか」という視点を増やしていくことなのだろう。
板垣教授は、それを「フィルター」と表現する。
「答えというより、ものの見え方が違ってくるんですよね」
同じ社会を見ていても、持っているフィルターによって見えるものは変わる。
大学で学問を学ぶ意味の一つは、そうした「ものの見方」を身につけることにある。
学問は「2~3年どっぷりつかる」ことで身につく

では、その「世界を見るフィルター」は、どうすれば身につくのだろうか。
板垣教授によれば、法学や経済学といった学問は、本を数冊読んだだけで身につくものではない。
「法律も経済も、2~3年どっぷりその世界につかる期間が必要だと思います」
授業を受ける。本を読む。考える。文章を書く。議論する。
最初はよく分からなくても、一つの学問に長く触れ続けているうちに、「法的にはどう考えるのか」「経済学的にはどう考えるのか」といった、その分野ならではの考え方が少しずつ身についていく。
法律の世界では、そうした思考法を「リーガルマインド」と呼ぶこともある。
もちろん、すべてを一つの学問だけで判断する必要はない。
大切なのは、自分がそれまで持っていなかった「ものの見方」を、一つ増やすことだ。
また、大学では専門だけを学ぶわけではない。
歴史、文化、芸術、自然科学など、専門外のさまざまな分野に触れる機会もある。
一つの専門を深く学びながら、自分とは異なる学問の存在も知る。そうすることで、「自分の見方だけが唯一のものではない」と気づくこともできる。
大学で過ごす数年間には、そんな時間も含まれている。
偏差値が示しているのは、あくまで大学の「入口」

ここで、最初の問いに戻ってみたい。
「どこの大学を出たのか」は、その人を見るうえで、どこまで重要なのだろうか。
板垣教授は、専門的な学問を学ぶには一定の基礎学力が必要だと話す。
「何の学問をするにも、一定の基礎学力は必要です。学ぶための前提となる知識がなければ、そこをインプットするところから始めなければならないので、教える側も学ぶ側も大変になります」
つまり、「偏差値など何の意味もない」という話ではない。
入試で測られる学力にも意味はある。専門的な内容を学ぶためには、その前提となる基礎学力が必要だからだ。
板垣教授自身も、「入試の難易度と学力には相関があると思う」と話す。難関大学の学生を教える中で、基礎学力の高さを感じることもあるという。
ただ、入試で測られるのは、あくまで大学へ入る時点での学力だ。
入学してから何を学んだのか。何年その分野に向き合ったのか。どのような考え方を身につけたのか。
そこまでは、入試難易度からは分からない。
板垣教授はこう話す。
「日本にある国立大学に入学できる学力があれば、あとはどれだけ専門にどっぷりつかったかがポイントとなるでしょう」
もちろん、「どこの大学でもまったく同じ」という意味ではない。
大学によって教育環境や研究環境は違うし、学生の基礎学力にも差はある。
それでも、大学の価値を偏差値だけで判断してしまえば、入学後の数年間で積み重ねたものが、まるごと抜け落ちてしまう。
どれだけ専門に向き合ったのか。どんな本を読み、どんな先生に出会い、何について考えたのか。そして、どのような「世界を見るフィルター」を身につけたのか。
偏差値は、大学への「入口」を示す一つの数字ではある。
しかし、その先にある学びまで表してくれる数字ではない。
AIが答えを出してくれる時代に、大学で学ぶ意味

この話は、生成AIが広がった今、さらに重要になっているのかもしれない。
分からない言葉は検索すればすぐに調べられる。生成AIに質問すれば、概要だけでなく、背景や関連する考え方まで短時間で知ることができる。
では、そんな時代に、何年もかけて大学で学問を学ぶ意味は薄れていくのだろうか。
板垣教授は、そうではないと話す。
「知識は、頭の中で組み合わせたり考え直したりすることで、新しい発想につながります。ですから、知識そのものの価値がなくなるわけではありません。ただ、知識を大量に暗記していること自体の価値は、これまでより相対的に下がっていくと思います」
単に『知っている』だけでは差がつきにくくなるのかもしれない。
一方で、AIが出した情報をどう受け止めるかは、人間の側に委ねられている。
何を疑うのか。どこに着目するのか。何と何を結びつけるのか。
そこには、その人が身につけてきた知識や考え方が表れる。
板垣教授が重要だと考えているのが、「学問の構造」を身につけることだ。
「じっくり時間をかけて、学問体系の構造や考え方を身につける。それは一朝一夕ではできません。2~3年ぐらいはどっぷりつからないと身につかない。その構造を身につけて、フィルターを通して世界を把握する価値は、これからも変わらないと思います」
AIは、問いを投げかければ答えを返してくれる。
しかし、そもそも何を問うのか。その答えをどのような基準で判断するのかは、自分で考えなければならない。
だからこそ、時間をかけて一つの学問に浸り、「自分はこの問題をどう見るのか」という思考の型を身につける意味はなくならない。
知識そのものにアクセスしやすくなった時代だからこそ、「どう考えるか」の価値はむしろ大きくなっているのかもしれない。
18歳の偏差値より、その後「学び続けること」のほうが大事

そして最後に板垣教授が強調したのが、大学を卒業した後のことだった。
「やはり一番大事なのは、学び続けることです」
小学校は6年間、中学校は3年間、高校は3年間、大学は4年間。
それに対して、大学を卒業した後の人生ははるかに長い。18歳の時点でどの大学に合格したのか。それだけで、その後の人生が決まるわけではない。
「大学で身につけたフィルターを、人生のいろいろなところで使ってほしいんです。法律でも経済でも、そこで身につけたものの見方を通して世の中を見ていく。それは道具なんですよね」
大学で学んだ専門知識を、そのまま仕事で使う人ばかりではない。
それでも、一つの学問を深く学んだ経験は残る。
問いを立てる。物事を整理する。分からないことを調べる。自分なりの枠組みで考える。そうした力は、大学を卒業した後も使い続けることができる。
そして社会に出てからも、新しい知識を学び、それまで持っていた考え方を少しずつ更新していく。
大学は、学びの「完成地点」ではない。
その後も学び続けていくための土台をつくる場所なのだろう。
偏差値だけでは、大学の価値は測れない

大学名や入試偏差値は、その時点での学力を示す一つの指標ではある。
専門的な学問を学ぶには一定の基礎学力が必要であり、入試難易度と学生の学力にある程度の関係があることも否定できない。
だから、偏差値そのものを否定する必要はない。
ただ、偏差値が示しているのは、あくまで大学への「入口」だ。
その大学で何を学んだのか。どれだけ一つの分野に向き合ったのか。どのような問いを持ち、どのような「世界を見るフィルター」を身につけたのか。
そうした学びの中身まで、一つの数字で知ることはできない。
18歳のときにどの大学へ入ったのかは、その人の長い学びの履歴の一部分にすぎない。
大学を見るのであれば、「入口の偏差値」だけではなく、その先でどのような学びがあり、そこで何を身につけられるのかまで考える必要がある。
大学とは本来、「入るまでの難しさ」だけではなく、「入った後に何を学んだのか」まで含めて語られる場所なのではないだろうか。





