
阪神地区北部から丹波地方にかけて、太平洋戦争によってその後の運命が分かれた国鉄有馬線と篠山線という二つの鉄道路線がありました。いずれも現在は廃線となっています。
豊臣秀吉も親しんだ、日本でも有数の温泉地・有馬温泉に国鉄(当時は鉄道省)が乗り入れていたことは関西でもあまり知られていない歴史です。
当時から瀬戸内海側、神戸市の新開地方面からは神戸電鉄有馬線も有馬温泉への湯治客を運んでいましたので、電化されていた路線だったこともありこちらの利用者が多かったからです。

国鉄有馬線も湯治客を運ぶ目的で敷設されたことに変わりはなかったのですが、日本の戦争への突入により、通勤路線としての性格も持っていた神戸電鉄有馬線とは違い、不要不急路線ということで戦時中に廃止が決定し短い役目を終えたので、影が薄い存在のまま歴史の彼方に忘れ去られてしまいました。
国鉄有馬線の前身は有馬軽便鉄道(有馬鉄道株式会社)という私鉄でした。後に買収されて国鉄の路線の一つになったわけです。
国鉄有馬線についてより詳しく調査したくなった筆者は、近隣の町にある図書館を回りましたが、廃線となったのが戦時中だったということもあるせいか、路線の起点となっていた三田市立図書館でさえ、司書の方に書籍や資料を検索していただきましたが、わずか見開き1ページのみ記述があった『三田市史』が出てきただけでした。
司書の方の提案で、路線の途中に位置する西宮市山口町にある郷土資料館の職員の方に詳しい方がおられるのではないかということで、早速訪問しました。
受付でたずねてみたところ、ちょうど出て来られた事務局長さんが有馬線に関するパンフレットを作られた方でして、パンフレットを見せていただきながら館内に保存されている数少ない当時の遺物に関する解説をしていただきました。
以下はその際の説明と筆者が実際に訪れた場所の写真です。



1915(大正4)年、福知山線三田駅(兵庫県三田市)〜有馬駅(兵庫県神戸市)の間、12.2キロが国鉄有馬線の営業区間でした。
終点・有馬駅があったところは当時、山口村(現・西宮市山口町)と呼ばれており、三田(さんだ)駅から蒸気機関車が牽引する列車が運行されていたそうです。(開通当初は日に6往復、後に7往復に増便)
所要時間は約35~40分で、途中3つある駅(塩田、新道場、有馬口)のうち下山口村字吉田(光明寺の下)に有馬口駅がありました。近くにあった乙倉橋が現在も残っています。




有馬温泉への交通需要の高まりを背景に、有馬鉄道株式会社は三田―有馬間の鉄道建設を進めました。その際、山口村に会社側から駅舎建設に対する応分の寄付金の要請があり、当時の金額としては高額の1,000円を拠出し会社側に手渡しました。駅名が山口に命名されることを期待したもので、村長も有馬鉄道株式会社に山口駅実現のための要望書も提出していました。しかしそれに反して駅名は有馬口と名づけられてしまいました。
その後有馬軽便鉄道は、1919(大正8)年3月31日、政府が買収し国有化され国鉄有馬線となりました。
使用された機関車は当初は製造時期からするとおそらく飽和式の3050形蒸気機関車、後に昭和に入ってから製造されたC12形でした。いずれも水と石炭を機関車の本体に積載する形態のタンク式蒸気機関車で、C12形は加熱式でした。
国鉄有馬線は全線が単線で、有馬駅方面へは前向き、三田方面へは後ろ向き(逆機)で走っていました。逆機とは、転車台(ターンテーブル)のない線区において、逆向きで列車を牽引することを言います。バック運転とも呼ばれます。

有馬口駅~終着駅である有馬駅間は、当時の国鉄でも最大級の33パーミル(1000分の33)の勾配が随所にあって、雨天の日などはしばしば機関車の動輪が空転し、機関士にとっては腕の見せ所でした。


太平洋戦争が深刻化し始めた昭和18年、軍需物資輸送強化のため、神戸製鋼所の製鉄用に使う珪石(けいせき)鉱山が存在した兵庫県篠山町(現・丹波篠山市)に新たな鉄道建設が必要となり、有馬線のレールなどの資材を転用することになりました。したがって1943(昭和18)年6月30日をもって国策により有馬線は廃線となりました。
主に観光用の路線だったということで、戦時下では不要不急路線と認定されてしまったため、廃止に対する大きな反対運動は起きませんでした。
有馬線の資材を再利用して1944(昭和19)年に開通した国鉄篠山線は、福知山線の篠山口駅を起点に、ゆくゆくは山陰本線の園部駅を結ぶ園篠(えんじょう)線となる計画でしたが全通は実現せず、途中の福住駅が終着駅のまま、高度成長期には珪石輸送が行われていました。
キハ10系気動車(ディーゼルカー)が貨車を牽引する光景が見られた路線でしたが、旅客輸送は振るわなかったようで、珪石鉱山の閉山とともに1972(昭和47)年に廃線となってしまいました。

有馬線廃線後の山口村の損失は大きく、1951(昭和26)年の西宮市との合併まで人口の伸びは全く見られませんでした。
2011(平成23)年までは、西宮市山口町から有馬に行く途中(山口町中野十八丁川)に線路の橋脚や橋台が残っていましたが、有馬山口線バイパスを作るために取り壊されました。
バブル期以降は有馬線や篠山線の本線としての福知山線沿線は、大阪や神戸のベッドタウンとしての開発が急速に進み、とりわけ有馬線の起点であった三田市は1980年代から1990年代にかけては人口増加率が日本一になったこともありました。
福知山線も篠山口駅まで複線化のうえ電化もされ、大阪駅から頻繁に通勤電車が走るようになりました。国鉄の路線の中でも大きな変貌を遂げた路線のひとつです。もしも有馬線や篠山線が残されていたならば、大阪駅から快速電車が直通する通勤路線になっていた可能性は高いです。
都市近郊にありながら、時代に翻弄(ほんろう)された2つの路線の話でした。
※写真は、全て3月23日筆者撮影
取材協力:兵庫県西宮市山口町郷土資料館 三田市立図書館 丹波篠山市立中央図書館





