奥州三古関の関所のひとつがあったことから「東北の玄関口」と言われる福島県白河市。最近ではさらに東北勢が甲子園でなかなか優勝できないというイメージが重なって、2022年夏の高校野球大会の際には「白河の関越え」というワードが一時Twitter(現在はXに改称)のトレンド入りしたことも記憶に新しいだろう。
白河の歴史は古く、日本で最初に公園を市中心部に築造した江戸後期の藩主・松平定信公の功績は最もよく知られるところだが、それに至るまでの桜にまつわる悲話をひとつ紹介しよう。
●小峰城 築城にまつわる悲運の物語
さかのぼること今から約400年前の江戸時代初め。陸奥棚倉(むつたなぐら)城から移ってきた初代藩主丹羽長重(にわ・ながしげ)は、白河で小峰城の大改築に着手した。しかし、あともう少しのところでなかなか完成しない。本丸の一角にどうしても崩れてしまう石垣があったからだ。
あれこれ策を尽くすもの、なかなかうまくいかない。ついに「何かの祟(たた)りでは?」という結論に至り、生け贄(にえ)として人柱を立てることに。人柱とは難工事の完成を祈り、人を生きたまま土に埋め神へ捧げる儀式だ。長い話し合いの末、家来たちは今朝1番最初に近くを通りがかった者を人柱にすることに決めた。そして、ついに見えた人の姿。なんとそれは会議に参加していた作事奉行の和知平左衛門(わち・へいざえもん)の娘「おとめ」だったのだ。父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは捕らえられ、そのまま城に身を捧げることとなった。
その後、石垣は無事完成し、2度と崩れることはなかった。人々はおとめの運命を悼み1本の桜の木を植えそれがいつしかおとめ桜と呼ばれるようになったという。
●おとめ桜:歴史と想いを繋ぐ
残念ながら、この桜は戊辰(ぼしん)の戦火で焼失したが、現在は2代目の「おとめ桜」が見事な花を咲かせ城を艶やかに彩る。2011年の東日本大震災ではこの小峰城も大きな被害を受けたが、ここでの石垣復旧工事の経験がその後の熊本城の復興にも役に立てられた。
「歴史のまち」白河には、おとめ桜だけではなく、古くから人々に親しまれてきた桜が点在し、中には伝説・伝承があるものもある。今年の白河地区の桜は今が満開。東北の玄関口で可憐(かれん)な桜に込められた想いに触れてみてはどうだろうか。