「和歌山大空襲」赤い空の下で起きた悲劇。77年後の青い空の下で平和を祈る。 


1945年の和歌山大空襲から77年が経ち、2022年7月9日、和歌山市西汀丁(にしみぎわちょう)の公園にある戦災殉難者供養塔の前で追悼法要があり、城善建設株式会社 社長の依岡善明(よりおか・よしあき)さんは、母親貞子(ていこ)さんと手を合わせました。

 依岡さんは、母・貞子さんが和歌山大空襲の日、「逃げろ」の声で、防空壕から真っ赤な空の下へと飛び出し助かったと子供の頃からよく聞かされていました。

それは、1945年7月の和歌山大空襲の日のことです。貞子さんは兄弟で一緒に庭に掘った防空壕に避難していました。爆弾の音が響いて煙が入りこんできた時、貞子さんの父高垣善一(たかがき・ぜんいち)さんが防空壕の扉をあけて叫んだ「逃げろ」の声で、飛びだしました。

家も木々も燃える真っ赤な空と真っ赤なまちなかを逃げたといいます。川に入り、小さなトンネルに身を潜め、一家7人は全員無事でした。

依岡さんは、「祖父・高垣善一さんの『逃げろ』という言葉がなければ、私はこの世にはいません」と話しています。

貞子さん達が避難していた防空壕には、焼夷弾(しょういだん)が落ち、親戚のおばさんが逃げ遅れて亡くなっていたそうです。

西汀丁の戦災殉難者供養塔には、その様子を「太平洋戦争の戦勢いよいよ急迫を告げる」ではじまり「市内に散在した戦災犠牲者の遺体を併せ、累計千数百体を荼毘(だび)に附してここに合同埋葬」と記録しています。

それが、戦後初の公選市長となった依岡さんの祖父善一さんの手書きの文字だと依岡さんが知ったのは今年の事でした。

ずっと貞子さんから聞いていた大空襲の話と善一さんの大空襲を語る文字が重なった瞬間だったそうです。

ロシア軍のウクライナ侵攻が連日報じられるなか、依岡さんは、「戦争を起こしてはいけない!」という善一さんからの強いメッセージのようにも感じたそうです。

(西汀丁町にある戦災殉難者供養塔)


この供養塔は、和歌山市戦災遺族会(田中誠三理事長)が大切に手入れをしています。

田中理事長の母親は、空襲時、鮮魚店の店先に立っていてその近くで倒れて死亡、姉2人も防空壕で圧死。自身も防空壕(ごう)で生き埋めになりながらも、生き延びた経験を持っています。

月命日の毎月9日には、和歌山市戦災遺族会の皆さんを中心に慰霊碑周辺の清掃や草引きなどが行われているそうです。

1953年5月の建立から約70年がたち、台座のひび割れや悲劇を語る善一さんの文字である碑文のかすれなどが目立ってきていました。

依岡さんは、田中理事長や遺族会の皆さんの話を聞いて、居ても立ってもいられなくなり、何かできることがあればお手伝いしたいと申し出ました。

そして、供養塔のひび割れの修繕や慰霊碑に刻まれた消えかかった文字を読めるようにするなど、今年の3月からおよそ2か月かけて施工しました。

7月9日の追悼法要では依岡社長は、晴れた青い空の下で、善一さんのメッセージとともに戦争は絶対に繰り返さないと深く強く願いを込め、祈りを捧げました。

依岡さんは「皆さまも西汀丁公園にお越しになり、是非とも供養塔と慰霊碑の前で鎮魂と平和への祈りを捧げてください。宜しくお願い申し上げます。」と話していました。 

供養塔の前に立つ依岡さん(中央左側)と田中理事長(中央右側)

野口千惠

和歌山市生まれ、地方新聞社勤務時、まちづくりを始める。その後地方創生の会社にスカウトされる。文章でまちづくりのお手伝いをする。
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